産経新聞出版「歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一」湯浅博著 2011・7刊

 2011年3月11日の東日本大震災は間もなく満4年目を迎える。日本の有事であった。救援 復興に10万人規模で人命救助、遺体収容、物資輸送 医療支援の部隊派遣が出来たのは自衛隊を置いてなかった。
 震災直後、北上川河口近くの小学校で犠牲になった児童を、一列になり、胸まで浸りながら捜索する隊員の姿に、胸に熱く来るものがあった。
 今年は戦後70年。安倍首相は総理大臣談話を出すに当たり有識者懇談会を設置し、まとめ、かつ憲法改正にも言及している。国の将来を左右する100年単位を超えるスパンで考える大問題である。
 現行憲法誕生の舞台裏というか、誕生に関与した当時の首相吉田茂GHQとの間で奔走した人物については、何人かの作家が取り上げている。「吉田茂が富士山なら、白洲次郎は宝永山」といわれた、白洲次郎については北康利の『白洲次郎・占領を背負った男』に詳しい。終戦後 吉田茂の下で終戦連絡事務局次長、経済安定本部次長,貿易庁長官として現在の通商産業省の前身を創設した。
 もう一人の側近として今日の自衛隊の前身の警察予備隊を創る黒子役を果たしたのが本書で取り上げる『歴史に消えた参謀、吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』である。マッカーサー占領時のGHQ,およびG2の下で白洲が通商面の参謀なら辰巳は国家治安、公安調査、情報の参謀であった。

 辰巳栄一、陸軍参謀本部きっての情報専門家といわれ、中国国民党の情報部門に通じ、国民党政府と協力して東京に対ソ諜報機関を構築した元軍人。佐賀県小城町(今の小城市)に1895年(明治28年)1月19日生まれる。佐賀の気風は葉隠の精神を残す土地柄といわれるが、朝鮮半島よりの日本防衛など、江戸初期以来の長崎警備を幕府から委託された歴史をもち、防人の気風が強かった。それだけではなく幕末の鍋島閑叟佐賀藩は、理化学、工業を興して佐賀藩をヨーロッパ並みの産業国家に創り上げようとして藩士に血みどろの勉学を強い、学業を成就できないものは罰として家禄を8割奪い、役につかせないなど一家餓死に等しい学業鍛錬主義という教育恐怖政治をやっていた。(『歴史を紀行する』:司馬遼太郎)。 明治初めの政府要職は、外務は副島種臣、司法は江藤新平、文部は大木喬任(江藤の後を継いで2代目司法卿)、大蔵は大隈重信が担当し、この時期陸海軍と内務以外は日本の各省の基礎は佐賀県人によるところ大であった。その後江藤新平佐賀の乱で政府入りは難しくなり軍人志す者が多かったという。この後歴史に名を残す軍人多い。

 さて吉田茂と辰巳栄一の出会いは、1936年(昭和11年)4月、57歳の吉田茂が在ロンドン駐英日本大使の時、辰巳栄一は41歳で英国大使館付武官に抜擢される。この時政府は既に日独防共協定を決定していた(翌、1937年日独伊三国防共協定締結)が在ロンドン大使の吉田茂は他の大使が賛成の中強硬に反対していた。陸軍主流派にとって速やかに除去しなければならない厄介者だった。辰巳は彼自身吉田と同じ英米寄りの考えであり複雑な気持ちであったが、立場上吉田の説得役であった。
 ロンドンコネクションが結実するには時の流れに限界があった。昭和11年から敗戦まで首相9人のうち6人が軍人、うち3人がドイツへの赴任組で、英米派はいない。陸軍大臣参謀総長はドイツ派、外務省も枢軸派と同調派が跋扈、その中で良識の英米派の日本人もいた。この当時ドイツ赴任の陸軍武官をドイツは厚遇したという。

 一方では辰巳にとり在ロンドン駐在日本大使館武官先輩の本田雅晴中将(皮肉にも戦後マニラ戦犯裁判で処刑、この裁判はコレヒドールで屈辱的敗北したマッカーサーの復讐劇とも言われている。『本田雅晴中将伝』:角田房子)のように軍国化が進む中で客観的に時代を見る軍人もいたが、日米協調工作は力尽き、辰巳は2年後の1938年(昭和13年)7月、吉田は10月相ついで国内に戻ることになる。吉田は翌年3月外交官のキャリアを閉じ、敗戦の東久邇内閣で外相に就くまで6年半浪々の身だった。辰巳はその後参謀本部欧米課長になるも「対英米戦争」の回避で辰巳―吉田は立場を超え協力した。気脈があっていたのかもしれない。辰巳は14年12月再度英国大使館武官として赴任するがマレー半島で日英戦争始まると軟禁状態に置かれ帰国するのは1942年(昭和17年)7月である。
 
 終戦白洲次郎が貿易庁創設にかかわる一方辰巳は吉田首相の下で警察予備隊の創設に奔走する。
更に終戦後の治安政策、公安調査、情報局の仕組み創りに黒子として奮闘する。
吉田と辰巳は独立後の国家像を描き、大英帝国のその後の姿から、外交上の交渉力とそのための情報力にあると考え、内閣官房調査室をつくり、文書収集、通信傍受、工作員活動の日本版CIA型情報局構想まで考えたがこれは実現しなかった。

 同時にGHQの要求する新憲法草案創りに関与した。新憲法制定にあたり吉田首相を支える骨格は白洲次郎、辰巳栄一、外相兼務の首相支える外務次官の寺崎太郎であった。 当のGHQ連合国最高司令官の総司令部とアメリカ太平洋陸軍司令官を兼ねておりこの頂点にマッカーサーがいた。このマッカーサーに卑屈になることもせず,阿ることもせず、意思を通したのが19歳より英国で学んだ白洲次郎であった。
 GHQには内部対立があり一方に反共主義のG2の諜報を得意としたウイロビー中将、と民間諜報局のブラットン、一方に容共政策の民生局長のホイットニー、ケーデイーズ陸軍大佐の2グループがあった。
 ウイロビー少将率いる参謀第2部(G2)は何故か帝国陸軍参謀本部の作戦に異様に関心をもち、日米開戦時の中核参謀を外地からGHQの特別指令で復員させ、追放の例外とし予算を取り、表向き太平洋戦史の編さんをさせていた。対ソ戦の研究をしたとも伝えられている。ノモンハンの作戦主任をした服部卓四郎はじめ、東条内閣の元秘書官も何人かおり、服部機関といわれた。これと同じく辰巳が主導する河辺虎四郎を中心とする河辺機関もあった。服部機関があとの「吉田クーデター未遂事件」につながった。(2008・CIA報告書)

 日本国憲法は民生局長ホイットニー准将、ホイットニーの懐刀、ハーバード大学の法律家でルーズベルト政権下でニューデイール政策案を推進した実力家ケーデイーズ陸軍大佐が特別チームをつくり合衆国憲法、ワイマール憲法、日本側憲法案を参考に9日間で草案を完成したという。事実かどうか「無害な3等国を創れ」というGHQの最優先事項といわれた。その骨子は象徴天皇戦争放棄封建制廃止といって、あとにマッカーサー3原則といわれる基本原則である。ケーデイーズが実質的に指導した。

天皇制護持」を人質に受け入れさせられたといわれるこの憲法はその後議論が多いが、この作業過程をイギリスはマッカーサーが本国の許可なく日本に押し付けたと見抜き、いずれ彼らの過剰な理想主義が日本の外交や安全保障論議に混乱を引き起こすと予測した。この状況を 先の北康利は『白洲次郎・占領を背負った男』で「コノ如クシテ コノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル。今ニ見テイロ、トイウ気持抑エ切レズ。密ニ涙ス」と書いている。元都知事石原慎太郎の激高する部分であるし、70歳 80歳あるいはそれ以上でわだかまりを持つ人は多いのではなかろうか。

 吉田は一刻も早く独立し民主国家としての信頼を得ることをめざし立法的技術面にはこだわらず纏めるべきとした。独立に際してはもともと彼自身の反軍的気質が強かったこともあり、「再軍備」については当時の経済力の無力さを踏まえた上で「やせ馬に重い荷物を背負わせるわけにはいかない」と「再軍備拒否」を決断した。後になり、「再軍備すれば驚異的な経済成長はなかっただろう。」と書いている。また日米安保については日本国憲法の不安定を補う一体のものと考えた。この点辰巳栄一と意見は異なったが、後年になり日本の経済力が充実した時代になり辰巳に「再軍備憲法の国防問題」について反省の言葉を伝えたという。

 今筆者は約50年前の吉田茂の自著『日本を決定した100年』(昭和42年)を読みなおしている。

50年前はそう思わなかったが、高尚な文章で日本人を想い、哲学的、より深く考えさせてくれる文章だ。江戸時代からの日本人の特性を評価し、信頼を置き、当時の大混乱の社会状況、明日からの食糧の心配、インフレの経済状況、旧ソ連の北海道への侵攻の不安、松川事件三鷹事件ほかの左翼、右翼の騒乱、「吉田クーデター未遂事件」が続き、戦後の混乱虚脱の時代に適切な判断と指導をした吉田茂。このような時代に首相を引き受け、GHQと渡り合い、1954年(昭和29年)12月10日、7年2カ月にわたり日本を守り抜いた日本人。このような働きの上にその後の日本があると。このブログ書いている最中に大磯の吉田邸が5億円で復元のニュースが出た。嬉しいことである。

しかしこの70年日本も大きく変わった。1929生まれ 戦時中、中学、高校生で1952年(昭和27年)外務省に入省した村田良平。昭和27年といえば、6年8カ月の占領が終わりGHQが消滅した年であり、対日講和条約発効の年である。また保安庁法成立し、警察予備隊海上警備隊が一本化し保安庁となり(吉田初代保安庁長官)公安調査庁新設の年でもある。内閣に内閣官房調査室が出来た。自衛隊が創設されたのは1954年7月である。その後時を経てアメリカ大使、外務次官、統合後のドイツ大使を歴任した日本とアメリカを熟知した戦後の大物外交官、村田良平(2011没、80歳)は日米関係が最重要であると思いこみが先立つのは誤りといい、日本の国益と、米国の国益は離れてゆく分野が大きい。日本と米国とは文化的、経済的交流盛んになり得ても日本は相当数ある友好国の一つ。利用している有用性が減少すれば希薄化する運命にあると。防衛分野で米国と結合を保ち、日米安保体制をより双務的にし米国からの依存より脱し独自の防衛力を強化すると。戦後100年めどに。『村田良平回想録』(2008年)

 東日本震災直後、ロシア空軍機の日本領空への飛来、中国艦載ヘリの尖閣諸島への飛来、ロシアのクリミヤ半島編入イスラム国、領土、領海線の国境線が溶融し100年前に戻っている観が強い。「新しい中世」という言葉が出て20年。70年前に戻っての歴史の復習が大切である。この国土を守るためいかに多くの智慧者が辰巳栄一のごとく、表に出ず、歴史に忘れられながら頑張っていたことか。

 辰巳よりほぼ30年早く、横井小楠の教えを受け継いだ縁者を叔父に持つ、明治元年熊本に生まれ、ロシア帝国情報が大切と自ら志願しロシア防諜に身をもって人生をかけた軍人に石光真清がいる。長男石光真人が父の手記をもとにまとめた伝記四部作『石光真清の手記:城下の人・曠野の花・望郷の歌・誰のために』がある。別の機会に纏めたいと考えているが 明治初期 子供時代の西南戦争時の兵士との戯れから昭和17年日英戦争せざるを得なかった頃までの日本の家庭教育の姿,人生の流転、軍国時代に入る社会の姿が見える。歴史に忘れられた市井の一人である。

 半藤一利は70年総理大臣談話に関し先日のBSNHKで語っていた。「力による外交でなく情報力による外交を、そのためには日露戦争史を学ぶことだと」この中に70年談話で日本が発信する智慧があるように考えているが。

 辰巳栄一元中将は昭和63年2月17日93歳で没した。港区界隈の興国山賢崇寺という佐賀鍋島家の菩提寺に墓があるという。吉田退陣後はすべてから手を引いた。(了)








 

残暑雑感。(2014残暑に)

 時代が100年以上前の国境溶解の時代に似ているという。ノートとりながら、20年前のキッシンジャーの著作「外交史・上下」読み始めた。

 2008年8月23日にスタートし、3日坊主かと思ったこのブログも足かけ満6年経た。月1回を考えたが不規則になっている。ブログ筆者も古稀の節目。年齢を重ねても未熟である。亡父が生前語ってくれた言葉が頭に残っている。「人間ガンバコに入るまでわからない」。(棺を覆うまでわからない,棺に入るまで想定外も起こり得る。中国語の『活到老 学到老』(人間死ぬまで勉強だ)に通じる。

 つい最近,家業の関係上、画家の人達に幼少のときから縁があり、「絵描き屋さん」になりたいと言う気持が通奏低音のようにあり続け「80歳画家」の目標をもち、71歳リタイヤ後、木版制作、風景スケッチ周りをやり、77歳喜寿の祝いに日本橋で個展を開いた現役時代の先輩に会った。派手ではなく、静かな 温厚な方で、現役時代からなんとなく心のどこかで尊敬していたが、「その偉さ』に接し、何かしら力と希望を頂戴した。

 このブログ、70歳ということで打ち切ろうかと迷ったが、古典などを含め読みたい書が沢山あり、『新刊書』にすぐ手を出さないまでも、欲張って読もうと手元に置いてある書もある。歴史上に残した女性の生き方も書きたいし、学校任せでない人間教育にも関心あるし、アジアの発展事情にも関心がある。現役のころ、ベンチャーキャピタルの仕事に取り組んだことで、新産業と地域開発にも関心ある。焦らず、テーマごと何冊か読んだ後、何ケ月に一度このブログにまとめようかと,もうしばらく続けることに決めた。この夏、宮城、石巻の「サンファン館」を訪れたり、日本―スペイン慶長遣欧使節出帆400周年記念オペラ高橋睦郎原作・脚本「遠い帆」を観る機会があったが、ブログも当初計画した通り、スペインについて書いてもみたい。堀田善衛「スペイン断章」「情熱の行方」等のようにはいかないが。

 少ないが、次に「「何を書くの?」と楽しみにして来てくれている嬉しい人もいる。
そう考えていたら、鳥越俊太郎氏が「祖父の流儀」という本を出した。未読だが筆者も孫に伝えたいこともあり、10年後高校生になった孫とスペインを一緒に廻りたい夢があるが。などなど。・・・・・
 残暑、皆様のご健康を願いながら雑感を記しました。

現代書館「小説 外務省・尖閣問題の正体」孫崎 享著2014・4・10刊

 本書「小説・外務省」に入る前に、外務省を取り上げた小説に、山崎豊子の「運命の人」がある。このブログ2009・10・31と2009・11・10で取り上げた。「運命の人」は琉球大学の我楽政規教授が米国立公文書館が秘密指定を解除した陸軍省参謀部軍史課による「琉球諸島における民政史」の中に1972・5月の沖縄返還に至る日米両国政府の交渉の実態の中に「密約の存在」を発見し、明らかになったことで終わる。

 このブログで「この事件の行き着く先の結論まで暫らく付き合わねばならない。」と書いた。それから5年が経った。主人公弓成のモデルとなった西山記者は70歳を超えた年齢で国を相手取り損害賠償と謝罪を求めた民事訴訟を起こす。2007・3月「20年の民法除斥期間」を理由に請求棄却、「密約の存在」に答える必要なしと裁判所は判断しなかった。最高裁でも2008.9月上告棄却となった。
支援有識者弁護団はその後「不開示処分取り消し求める訴訟」を地裁に起こした。その最終審、最高裁の上告審が先月14日(2014・7・14日)行われた。
 2010年・4月第一審では東京地裁は「文書は極めて重要性が高く国が保有していると認定できる」とし開示と損害金支払いを命じた。第二審、東京高裁は2011・9月「密約文書はかって作られたことは認定しながら秘密裏に廃棄された可能性あり。」として、不開示妥当と判断した。そして最終審。「第二審判決を支持し原告側の上告を棄却」。過去に作成されたことが立証された文書についても行政機関が文書を保有していたことの立証は原告側が負う、と初判断を示し、敗訴確定した。この事件スタートから40余年要した。今の民主主義を建前とした政治である。2001年情報公開法施行前後、大量の行政文書が廃棄されたという報道がある。今年12月特別秘密保護法が施行される。受け身でなくテレビ、新聞の「報道の真偽」を見極めることも大切なことだ。


 「小説・外務省」を一気に読んだ。第三章・「歴史の探訪」が重い。1972年9月当時の田中角栄首相・周恩来首相の会談、それに続く1978年の園田外相、訒小平副首相の日中平和友好条約締結時までは「棚上げ論」が支配的であったが、いつのまにか「棚上げ論」が否定されて「領土問題は存在しない」と日本政府。外務省の方針となっている。
 孫崎氏モデルの主人公は35歳の東大出の外交官。加賀という一向一揆のDNAある土地柄と関連づけるわけではないが、左遷覚悟で、外務省の方針に反し「棚上げ」が日本の国益に沿うと腹を決め省内の反発を受けながら、中には理解ある上席に力を貰いながら、組織内で仕事してゆく。大変なことである。

 さて「棚上げ」の合意があったかとか、無かったとかより「棚上げ」が否定され「領土問題存在なし」というこの考え方の出てきた日本の外交方針の変化に主人公は 退官した先輩に聞いたり、種々の
文書を調べたりしメスを入れてゆく。

 それは1996年前後。冷戦が終わり日米双方に安全保障関係をどうするか様々の議論があり、その中で防衛庁中心に纏めた「アメリカより多国間の関係構築を最重視する政策のレポート」にあわてた米側が急ぎ日米軍事同盟の性格の「日米安全保障共同宣言・21世紀に向けての同盟」を創ったことに気が付く。この前後に関与、関係した、防衛庁要人が続けてガンでなくなるのも小説なのか、真実なのかミステリアスであるが。もっともこの当時の外務大臣に、日米軍事同盟推進派の池田行彦や慎重派の園田直の名前はブログ筆者も覚えているし、当時は慎重派を支持していた。
 この時 推進派が「棚上げ合意否定」し、慎重派が「棚上げ合意肯定」し、その後外務省内の力関係のアメリカンスクール派と ジャパンハンドラーの戦略で「棚上げ合意論」が後退し、今日の「領土問題存在なし』になったのではと考えてゆく。

 そして沖縄返還の際に「尖閣」の領有権を曖昧にし、つまり返還以前と返還以後について明確にしないで:(尖閣についてアメリカは日米安全保障の対象であるが、領有権はどちらにも与せず:1996・9・15:ニュヨークタイムズ他、その後もアメリカ高官の同趣旨の発言ある。)日中永久に争わせる楔を打ったという。この時代のアメリカは「ウオターゲート事件」など「陰謀の宮殿」といわれたニクソンキッシンジャーホワイトハウス、考えられなくもなしと主人公のモデルの孫崎氏は語る。筆者も同感である。併せて戦後の事実の1951年の在日英国大使館から本国政府への「進言」がナルホド感を与える。それは「日本に千島を放棄させその範囲を曖昧にさせれば、これも日ソ永久に争う」と。

 昨年の尖閣の漁船衝突事件は記憶に新しい。これもジャパンハンドラーの手に当時の前原大臣が乗ってしまったという。この時の衆議院議員河野太郎の2000年の「日中漁業『新協定』」を絡めたブログの指摘に感心した。この議員やはりどこか違う。


今「ウクライナ問題」がある。一方で「プーチンの予定どうりの日本訪問と日本との北方帰属問題」がある。

 日本の国益のため政府・外務省はアメリカのジャパンハンドラーの意向のとうりのままなのか、あるいは、独自の成程という外交戦略をとるのか。9月、10月、11月、12月の日本国のかじ取りがどうか。大いに関心大である。
 終戦時10代で占領軍のやり方を身体を以て体験し、外務省に入り、事務次官をやった故・村田良平は「回顧録」で後進達に戦後100年をめどに自主の道をと書いて亡くなったが来年は戦後70年目とか。自主の道は最近の東アジア、ウクライナ事情を見ると、逆に遠くなるようだ。

 それにしても元外務官僚はいろいろの書を読んでいる。佐藤優孫崎享、熊野洋(ペンネームか?)などなど。脳細胞の刺激を強く受ける。(了)




 

藤原書店「小説 横井小楠」小島英記著 2013・3・30刊

 明治維新後、戊辰戦争敗者側の少年たちの資質を見抜き人材教育を行った新進官僚の中に、小楠の門下生が何人か歴史上に現れる。後藤新平少年を給仕として雇った安場保和は小楠門下四天王の一人といわれた。山川健次郎とともに会津が生んだ明治人の一人柴五郎少年を育てた野田豁(ひろ)通、 安場は福島県知事、愛知県知事、福岡県知事をやり、野田は熊本細川藩の石光真民の末弟に生まれて野田家に入籍し,横井小楠の門下となり、東北各藩の子弟の救済にあたった。後の男爵陸軍主計総監となる。

 ようやく「小説 横井小楠」を読了した。

 80余歳の先輩が「記録をしながら書を読んでいる」と聞いて以来ブログ筆者も数年来そのようにしている。そのまとめたメモを後日読むのもあとからいろいろ考えさせてくれる。

横井小楠』、1808年に生まれ、 明治2年(1869年)没。61歳。肥後藩で生まれたが本書によると、肥後藩では終始煙たがられたようだ。反対に前田藩に対する備えとして、徳川家康の次男結城秀康を先祖にもつ、福井藩の16代藩主松平慶永、のちの春嶽にその見識を請われ、福井藩に招聘されてから、その持つ学識を思う存分生かし藩政改革に手腕を発揮する。さらに春嶽が幕府総裁職になると、ブレーンとして幕政改革を行った。肥後藩は小楠の福井藩での登用を最後まで反対した。百数十年前であるが現代と何か似ている。

本書を読み、2,3書き残したい。

 小楠は、『国是三論』という文武節倹策から積極富国策へと転換させる国家政策論の中で、「富国論」、「強兵論」、と並ぶ「士道論」の中で「文武両道」という言葉の根本に言及している。日本の中世争乱の時代、有識の武将は、権謀、智術、剛勇だけでは,衆を服し、国を治めるとかできないと悟り、心の鍛錬に励んだ。教える者も,学ぶ者も心法を先にし、武術という技芸を後としたから、技芸に長じたものは、必ず、政事(治)を担当する心構えが身についた。その後太平の世が続き、小手先の技芸のみが優先、数家の免許状を得て、名声を上げ就職の手段とするようになった。当初「心法」を大切にした言葉として、例えば柳生新陰流の教えの中に、「心こそ、心迷わす 心なれ 心に心、心ゆるすな」とある。また「柳生家家訓」に「小才は縁に出会って,縁に気づかず、中才は縁に気づいて縁を生かせず、大才は袖すりあう縁を生かす。」と。元来「武」は士道の本体であるから、武士であると心得ているものは綱常という道徳規範に従い、君父に仕え、朋友と交わり、家を斉え、国を治める道を講究しなければならない。わからない場合の道理を聖人の経書に求めた。武の文たるゆえんである。
 これらの言葉は現代社会でも十分あてはまる教えである。「知識=技=武」ばかり先だって「心=思想=文}がなければいつかは行き詰まる。小楠は後世になって文武を2つに分けて並立させる考えは古意に反するものであると主張した。同感である。

 小楠の思想は、幕藩体制の危機感より、儒教を再認識しながら朱子学の本来の道理を古典に遡り正確に理解することを説いた。国家の在り方は堯舜という君子に見られる古代中国の民を豊かにする儒教的君主国家の「すがた」である。彼の考えは実践的、合理的な行動を目指す「実学党」として広まったものの、伝統的な儒学を擁護する肥後藩藩政主流派の「学校党」に敵視され、藩では採用されなかった。
この「学校党」の系譜をひく「国権党」との確執は 小楠没後も続き、明治に入り15年まで続いた。

 「君 君ならずとも臣臣なるの道を尽くす』の考えには小楠は反対し、「君」が「君」の力を備えなければ変えるべきという現代では当然の理論を主張した。徳川一家のための幕府政治、大名一家のための藩政治でなく民意を尊重する政体を主張した。

 小楠の思想を更に強固にしたのは『海国図志』という書物を読んでからである。『海国図志』はアヘン戦争で敗北した清国の林則徐が米国公理会より中国に派遣された宣教師 E・C ・ブリッジメンの著した地理誌「聯邦(れんぽう)志略」を翻訳したものに、さらに造船、火薬製造,化学などの技術解説を付加し魏源が1843年に刊行した本である。100巻つくられ日本にはキリスト禁制のため3巻輸入された。あの川路聖謨が即座に重要性を見抜いたという。小楠もこれを読み世界観を一層強固にした。
 当初は「無茶無道と思ったアメリカが、意外や有道の政治をやっている。自分の考えと近い」と。「ひとまず屈服して和を結ぶという幕府、や水戸は間違い。夷狄並みの政治になるように改革する」とより一層意を固めた。

 本書を読み、ある人物の見方を変えた。岩倉具視である。
明治政府の三職(その後官制が変遷するが)という総裁、議定、参与という重鎮に小楠を制度局判事から参与に推挙しさらに従四位下に任じたのは岩倉という。
岩倉は明治天皇の初期の君主としての人間教育にも小楠の意見を聞いた。はたして維新直後の明治2年 時代についていけない愚かな自国民により暗殺され、1869年没するが、その後を引き継ぐのが、冒頭述べた安場保和であり、野田豁(ひろ)通である。時代は引き継がれる。明治に入ってからの明治日本人の姿は、明治元年熊本に生まれた石光真清の4部作の手記に詳しい。研究材料として取り組もう。(了) 

文芸春秋「孤愁・サウダーデ」新田次郎・藤原正彦著2012・11・30刊

 フランスの「シャンソン」、イタリアの「カンツオーネ」、スペインの「フラメンコ」と並んで、聴く人に何とも言えぬ「哀調」の響きを持つ音楽に、ポルトガルの「ファド」がある。
「孤愁」、日本語で書くと、いまいちであるが、ポルトガル語「サウダーデ・saudade」と書くと、その言葉のもつ響きが「ファド」と相通じてなんとなく伝わってくる。「ファド」は愁いを繰り返し、繰り返し訴え続ける歌曲である。「孤愁」という言葉は「広辞苑」第二版にはこの言葉はないが「広辞苑」第六版になると出てくる。こしゅう「孤愁」:一人でいることの寂しさ、孤独の思い。

 著者新田次郎は前半の小説で「孤愁」は故国を慕いながら帰ろうとしなくなる。帰ろうと思えば帰れる、だが帰らない、帰るべきでないという気持になっていくと語り、藤原は更に付け加えて、過去を思い出すだけでなく、そうすることによって甘く悲しい切ない感情に浸りこみ、その感情の中に生きることを発見する・・・・・と語る。

 いい小説だった。久しぶりに落ち着いて読むことのできた小説だった。
前半「日露開戦」までは父親新田次郎毎日新聞に連載中、1980年2月突然亡くなるまでの作品であり、後半は息子藤原正彦が父の没後32年かけ、父の訪問した処を訪れたり、父の残した文献すべて読んで、昨年11月出した小説である、と、あとがきで触れている。

 時代は120年から130年前日清戦争日露戦争の時代、ポルトガル国元海軍中佐であり、元神戸、大阪総領事で一時はイタリア国領事、神戸筆頭領事を兼任し文筆家として名を成した、ヴェンセスラオ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエスの生涯を題材にした小説である。神戸市に「モラエス銅像」があり、徳島市に「モラエス博物館」「モラエス通り」がある、という。モラエス1854年ポルトガルリスボンに生まれ、1875年(明治8年)21歳で海軍士官となり34歳までアフリカ、インド、アジアの各地を航海していた。1888年明治21年)34歳でマカオに港務局副司令官となり、赴任した。翌年1889年海軍軍人として日本を訪れ、その後外交官として、日本で初めて領事館開設される公使に随行,1898年(明治31年)11月44歳で神戸、大阪ポルトガル副領事となり、後に総領事となった。1854年生まれとなると、このブログで以前ふれた後藤新平(1857年)、日本女子大創立者成瀬仁蔵(1858年)、 岡倉天心の理解者九鬼隆一(1850年東洋大学創立者井上円了(1858年)達と同じ時代を日本で生きたポルトガル人である。

 副領事となった1898年前後は 世界は1898年米西戦争、1899年から1902年ボーア戦争 1914年第一次世界大戦と流れ 日本では1894年日清戦争明治27年)から1904年日露戦争その時代である。いはば、植民地争奪の時代である。

 神戸、大阪総領事となり名誉も富もあったポルトガル国籍の海軍中佐が 神戸在住中芸者おヨネという日本女性を見初め、恋をし、おヨネ亡きあとは海軍士官、外交官などのすべての官職を捨て日本の地に骨をうずめる覚悟でその妻の郷里徳島に居を移し、しかもその時代は世間から洋妾(ヤシャメン)と陰口された妻の郷里で墓守しながら1929年7月、75年の人生を終える。

 その当時の日本あるいは日本人のどの部分に心が動かされ、故郷を思いながら生涯を終えたのか。1891年外交官として来日以来38年間一度も本国に帰らなかったなど、研究家の間では現在もその対象にされているという。
著者山岳小説家新田次郎はこの郷愁、孤愁に流れる感情の表現に作家として強くひかれたのだろう。と筆者は思う。

 モラエスは当時の日本を見て、彼がそれまで見たり接したりしたヨーロッパ近代文明の行き着いた先の工場労働者の姿、アフリカ、インドで見た植民地の汚濁した都市の姿、利害損得のみの荒廃した精神だけの人達に対して、近代文明の対極にある日本の風景と細かな心情を持つ東洋にあこがれを抱いたのではあるまいか。
 彼は軍人、外交官のほか文筆家として卓越しかなりの著書を残した。毎月2週間ごとにポルトガルの「ポルト商報」という新聞に「日本通信」として日本賛美の随筆を掲載し始めたのが1902年である。日露戦争の2年前であったが日露戦争の動向についても外交官の目で的確な分析を行ったという。もっともこのブログ2013・3・15「最後の日本人」で取り上げたイエール大学日本人最初の教授朝河貫一もこの当時海外から的確な分析を世界に発信した。当時の同世代の日本人や同世代の外国人の真剣な生き方が想像できる。

 また「徳島の盆踊り」(今でいう阿波踊りか?)を見て彼は以下のように書いている。「日本人は日常的に死者を祭り死を語り、盆には死者の霊をむかえて一緒に暮らす。これがどれほどの人と心を慰め死の恐怖を和らげているだろうか。」と。モラレスのこのような文学的才能、洗練された審美的趣味そして、鋭い感性は青年時代よりあったという。恋の多い青年であったと研究家は語っている。没後はしばらくは亡き妻の遺族の音信は徳島から絶えたようだが。
 
 モラエスと同様、日本女性と結婚したヨーロッパ人にオーストリーハンガリー帝国の外交官として赴任したリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフカレルギーの父がいる。(このブログ2010・7・29に書いた「クーデンホーフ・光子伝」)。父は母光子とともに本国に帰ったが、息子栄次郎・クーデンホーフ・カレルギーEUを創った。


 現代日本の精神は当時と比べ、何が忘れ去られて、何を守ってきたのか、じっくりと考えさせられる小説だった。本書を閉じて考えた。モラエスというポルトガル人は日本人以上に、万物の美を観照する際に比類のない繊細さを発揮したポルトガル人でなかったかと。いまでもモラレス研究がなされている。「モラエスの生涯:岡村多希子・東京外語大1994年」、「モラエス・サウダーデの旅人:岡村多希子・モラレス会・2008年」、「モラレス会75年史:2010年・7月」などなど。
 彼の文章からは何かしら「素晴らしい繊細な日本画」を観ているような錯覚をうける。モラエスの書いた100年前の本を更に読みたい気がして来た。(了)

早川書房「ブレイクアウト ネーションズ=大停滞を打ち破る新興諸国」 ルチル・シャルマ著 2013・2刊

 このブログ2008年8月にスタートし 足かけ満5年になる。
短期間であったがベトナムハノイに行ってきた。高速道路を走る2人乗りの若者のオートバイの数に圧倒され エネルギーを貰って帰ってきた。
 数年前ベトナムを次の中国と持ち上げ、ベトナム投資熱があったが、順調ではなかった。空港のレストランのレジ係がパソコンゲームに夢中になっている姿、日本では即解雇だろう。一党支配の社会主義の空気が垣間見えた。ハノイホーチミン間、飛行機で2〜3時間 列車だと30数時間と案内ガイドが説明してくれた。30数時間とすると、日本から南米までの所要時間である。GDP1000億ドルの経済にこの用地の買収だけで500億ドルと本書は述べている。まだまだ発展までは時間を要す。
 世界経済が激変の中にある現代、次にブレイクアウトする国はどこか?
機関投資家の目線でブレイクアウトネーションズを予測し分析している。興味尽きない著書である。(了)

学陽書房「小説上杉鷹山(上・下)」童門冬二著1992・5刊

 「なせば成る、為さねばならぬ何事も、為さぬはひとのなさぬなりけり」という上杉鷹山で有名な「米沢」という会津に近い風土を思い出し、早速かねて読んだ上記歴史小説、と同じ「鷹山」を取り上げた「漆の実のみのる国(上・下)(藤沢周平著)を、さらに2代目藩主「直江山城守兼続」を取り上げ以前NHK大河ドラマとして放映された「天地人(上・下)」(火坂雅志著)を一気に読み返した。
静かに読むといずれも味わい深い。あらすじは省略するが、上杉謙信が生きた16世紀(謙信は1578年49歳で没)直江兼続が生きた16・17世紀(兼続は1616年59歳で没)上杉鷹山は1823年72歳で没する18・19世紀に生きた。16世紀から21世紀のおよそ600年、その歴史に耐えた風土のもつ考えがそれなりに今日に伝わっているのではと考えている。
 
「風土の持つ考え」と表現したが、ある研究者によると、世界各国で創業以来200年を超える企業数は、日本は3937社で第1位、2位のドイツは1850社、1位、2位で倍の開きがある。ドイツが老舗が多いことはなんとなくわかる。そして日本国内で老舗出現率の高い町上位10位は静岡の元駿府城城下町が3位に入っているのを除くとすべて新潟、山形、長野、金沢、福島の寒い風土に耐えた地域である。
 その中に米沢も丁度10番目に入っている。現役第1線で活躍中のベンチャーキャピタリストが教えてくれた。フランスには「エノキアン協会」という団体があり日本からは5社加盟中という。条件は200年以上の歴史をもち、かつ、創立者が明確で現在も同族に経営権があり、かつ健全な経営を今日なお継続していることという。この5社には米沢の老舗は入っていないがこの地域が日本で10位の老舗出現を出していることは驚きに値する。

上杉謙信の後継者上杉景勝に仕えた直江兼続が、豊臣の時代に100万石以上の3大大名の一人の上杉家において、主君とともに会津に移封されたのが1598年、当時の石高は120万石、徳川幕府になり30万石に、その後さらに15万石に減封された。米沢は今でいう破産状態寸前であった。そこから謙信から10代目、兼続から9代目の上杉鷹山という名君を中心に、「興譲館」という身分に関係ない学問教習所をつくり、子女を教育し、農業だけでない 産業振興、経済の発展を模索した。一つ一つの工夫智慧のDNAがこの地に残っているからこそ、10位の老舗出現率が物語るのではと、興味深い。会社を継続させることは簡単ではない。しかも200年である。2000年から遡ること200年,丁度鷹山50歳あたりに起業した老舗が200年の歴史を刻んだことになる。どのような家訓を子孫に伝えたのであろうか。意外や、単純で愚直なことかもしれない。しかし本質をついているのかもしれない。聴くところによると現在では山形大学工学部がこの地にあり、新産業の研究に取り組んでいるという。守勢にならず、切り拓く姿勢がどの時代、どんな環境に置かれても大切と考える。(了)