産経新聞出版「歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一」湯浅博著 2011・7刊

 2011年3月11日の東日本大震災は間もなく満4年目を迎える。日本の有事であった。救援 復興に10万人規模で人命救助、遺体収容、物資輸送 医療支援の部隊派遣が出来たのは自衛隊を置いてなかった。
 震災直後、北上川河口近くの小学校で犠牲になった児童を、一列になり、胸まで浸りながら捜索する隊員の姿に、胸に熱く来るものがあった。
 今年は戦後70年。安倍首相は総理大臣談話を出すに当たり有識者懇談会を設置し、まとめ、かつ憲法改正にも言及している。国の将来を左右する100年単位を超えるスパンで考える大問題である。
 現行憲法誕生の舞台裏というか、誕生に関与した当時の首相吉田茂GHQとの間で奔走した人物については、何人かの作家が取り上げている。「吉田茂が富士山なら、白洲次郎は宝永山」といわれた、白洲次郎については北康利の『白洲次郎・占領を背負った男』に詳しい。終戦後 吉田茂の下で終戦連絡事務局次長、経済安定本部次長,貿易庁長官として現在の通商産業省の前身を創設した。
 もう一人の側近として今日の自衛隊の前身の警察予備隊を創る黒子役を果たしたのが本書で取り上げる『歴史に消えた参謀、吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』である。マッカーサー占領時のGHQ,およびG2の下で白洲が通商面の参謀なら辰巳は国家治安、公安調査、情報の参謀であった。

 辰巳栄一、陸軍参謀本部きっての情報専門家といわれ、中国国民党の情報部門に通じ、国民党政府と協力して東京に対ソ諜報機関を構築した元軍人。佐賀県小城町(今の小城市)に1895年(明治28年)1月19日生まれる。佐賀の気風は葉隠の精神を残す土地柄といわれるが、朝鮮半島よりの日本防衛など、江戸初期以来の長崎警備を幕府から委託された歴史をもち、防人の気風が強かった。それだけではなく幕末の鍋島閑叟佐賀藩は、理化学、工業を興して佐賀藩をヨーロッパ並みの産業国家に創り上げようとして藩士に血みどろの勉学を強い、学業を成就できないものは罰として家禄を8割奪い、役につかせないなど一家餓死に等しい学業鍛錬主義という教育恐怖政治をやっていた。(『歴史を紀行する』:司馬遼太郎)。 明治初めの政府要職は、外務は副島種臣、司法は江藤新平、文部は大木喬任(江藤の後を継いで2代目司法卿)、大蔵は大隈重信が担当し、この時期陸海軍と内務以外は日本の各省の基礎は佐賀県人によるところ大であった。その後江藤新平佐賀の乱で政府入りは難しくなり軍人志す者が多かったという。この後歴史に名を残す軍人多い。

 さて吉田茂と辰巳栄一の出会いは、1936年(昭和11年)4月、57歳の吉田茂が在ロンドン駐英日本大使の時、辰巳栄一は41歳で英国大使館付武官に抜擢される。この時政府は既に日独防共協定を決定していた(翌、1937年日独伊三国防共協定締結)が在ロンドン大使の吉田茂は他の大使が賛成の中強硬に反対していた。陸軍主流派にとって速やかに除去しなければならない厄介者だった。辰巳は彼自身吉田と同じ英米寄りの考えであり複雑な気持ちであったが、立場上吉田の説得役であった。
 ロンドンコネクションが結実するには時の流れに限界があった。昭和11年から敗戦まで首相9人のうち6人が軍人、うち3人がドイツへの赴任組で、英米派はいない。陸軍大臣参謀総長はドイツ派、外務省も枢軸派と同調派が跋扈、その中で良識の英米派の日本人もいた。この当時ドイツ赴任の陸軍武官をドイツは厚遇したという。

 一方では辰巳にとり在ロンドン駐在日本大使館武官先輩の本田雅晴中将(皮肉にも戦後マニラ戦犯裁判で処刑、この裁判はコレヒドールで屈辱的敗北したマッカーサーの復讐劇とも言われている。『本田雅晴中将伝』:角田房子)のように軍国化が進む中で客観的に時代を見る軍人もいたが、日米協調工作は力尽き、辰巳は2年後の1938年(昭和13年)7月、吉田は10月相ついで国内に戻ることになる。吉田は翌年3月外交官のキャリアを閉じ、敗戦の東久邇内閣で外相に就くまで6年半浪々の身だった。辰巳はその後参謀本部欧米課長になるも「対英米戦争」の回避で辰巳―吉田は立場を超え協力した。気脈があっていたのかもしれない。辰巳は14年12月再度英国大使館武官として赴任するがマレー半島で日英戦争始まると軟禁状態に置かれ帰国するのは1942年(昭和17年)7月である。
 
 終戦白洲次郎が貿易庁創設にかかわる一方辰巳は吉田首相の下で警察予備隊の創設に奔走する。
更に終戦後の治安政策、公安調査、情報局の仕組み創りに黒子として奮闘する。
吉田と辰巳は独立後の国家像を描き、大英帝国のその後の姿から、外交上の交渉力とそのための情報力にあると考え、内閣官房調査室をつくり、文書収集、通信傍受、工作員活動の日本版CIA型情報局構想まで考えたがこれは実現しなかった。

 同時にGHQの要求する新憲法草案創りに関与した。新憲法制定にあたり吉田首相を支える骨格は白洲次郎、辰巳栄一、外相兼務の首相支える外務次官の寺崎太郎であった。 当のGHQ連合国最高司令官の総司令部とアメリカ太平洋陸軍司令官を兼ねておりこの頂点にマッカーサーがいた。このマッカーサーに卑屈になることもせず,阿ることもせず、意思を通したのが19歳より英国で学んだ白洲次郎であった。
 GHQには内部対立があり一方に反共主義のG2の諜報を得意としたウイロビー中将、と民間諜報局のブラットン、一方に容共政策の民生局長のホイットニー、ケーデイーズ陸軍大佐の2グループがあった。
 ウイロビー少将率いる参謀第2部(G2)は何故か帝国陸軍参謀本部の作戦に異様に関心をもち、日米開戦時の中核参謀を外地からGHQの特別指令で復員させ、追放の例外とし予算を取り、表向き太平洋戦史の編さんをさせていた。対ソ戦の研究をしたとも伝えられている。ノモンハンの作戦主任をした服部卓四郎はじめ、東条内閣の元秘書官も何人かおり、服部機関といわれた。これと同じく辰巳が主導する河辺虎四郎を中心とする河辺機関もあった。服部機関があとの「吉田クーデター未遂事件」につながった。(2008・CIA報告書)

 日本国憲法は民生局長ホイットニー准将、ホイットニーの懐刀、ハーバード大学の法律家でルーズベルト政権下でニューデイール政策案を推進した実力家ケーデイーズ陸軍大佐が特別チームをつくり合衆国憲法、ワイマール憲法、日本側憲法案を参考に9日間で草案を完成したという。事実かどうか「無害な3等国を創れ」というGHQの最優先事項といわれた。その骨子は象徴天皇戦争放棄封建制廃止といって、あとにマッカーサー3原則といわれる基本原則である。ケーデイーズが実質的に指導した。

天皇制護持」を人質に受け入れさせられたといわれるこの憲法はその後議論が多いが、この作業過程をイギリスはマッカーサーが本国の許可なく日本に押し付けたと見抜き、いずれ彼らの過剰な理想主義が日本の外交や安全保障論議に混乱を引き起こすと予測した。この状況を 先の北康利は『白洲次郎・占領を背負った男』で「コノ如クシテ コノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル。今ニ見テイロ、トイウ気持抑エ切レズ。密ニ涙ス」と書いている。元都知事石原慎太郎の激高する部分であるし、70歳 80歳あるいはそれ以上でわだかまりを持つ人は多いのではなかろうか。

 吉田は一刻も早く独立し民主国家としての信頼を得ることをめざし立法的技術面にはこだわらず纏めるべきとした。独立に際してはもともと彼自身の反軍的気質が強かったこともあり、「再軍備」については当時の経済力の無力さを踏まえた上で「やせ馬に重い荷物を背負わせるわけにはいかない」と「再軍備拒否」を決断した。後になり、「再軍備すれば驚異的な経済成長はなかっただろう。」と書いている。また日米安保については日本国憲法の不安定を補う一体のものと考えた。この点辰巳栄一と意見は異なったが、後年になり日本の経済力が充実した時代になり辰巳に「再軍備憲法の国防問題」について反省の言葉を伝えたという。

 今筆者は約50年前の吉田茂の自著『日本を決定した100年』(昭和42年)を読みなおしている。

50年前はそう思わなかったが、高尚な文章で日本人を想い、哲学的、より深く考えさせてくれる文章だ。江戸時代からの日本人の特性を評価し、信頼を置き、当時の大混乱の社会状況、明日からの食糧の心配、インフレの経済状況、旧ソ連の北海道への侵攻の不安、松川事件三鷹事件ほかの左翼、右翼の騒乱、「吉田クーデター未遂事件」が続き、戦後の混乱虚脱の時代に適切な判断と指導をした吉田茂。このような時代に首相を引き受け、GHQと渡り合い、1954年(昭和29年)12月10日、7年2カ月にわたり日本を守り抜いた日本人。このような働きの上にその後の日本があると。このブログ書いている最中に大磯の吉田邸が5億円で復元のニュースが出た。嬉しいことである。

しかしこの70年日本も大きく変わった。1929生まれ 戦時中、中学、高校生で1952年(昭和27年)外務省に入省した村田良平。昭和27年といえば、6年8カ月の占領が終わりGHQが消滅した年であり、対日講和条約発効の年である。また保安庁法成立し、警察予備隊海上警備隊が一本化し保安庁となり(吉田初代保安庁長官)公安調査庁新設の年でもある。内閣に内閣官房調査室が出来た。自衛隊が創設されたのは1954年7月である。その後時を経てアメリカ大使、外務次官、統合後のドイツ大使を歴任した日本とアメリカを熟知した戦後の大物外交官、村田良平(2011没、80歳)は日米関係が最重要であると思いこみが先立つのは誤りといい、日本の国益と、米国の国益は離れてゆく分野が大きい。日本と米国とは文化的、経済的交流盛んになり得ても日本は相当数ある友好国の一つ。利用している有用性が減少すれば希薄化する運命にあると。防衛分野で米国と結合を保ち、日米安保体制をより双務的にし米国からの依存より脱し独自の防衛力を強化すると。戦後100年めどに。『村田良平回想録』(2008年)

 東日本震災直後、ロシア空軍機の日本領空への飛来、中国艦載ヘリの尖閣諸島への飛来、ロシアのクリミヤ半島編入イスラム国、領土、領海線の国境線が溶融し100年前に戻っている観が強い。「新しい中世」という言葉が出て20年。70年前に戻っての歴史の復習が大切である。この国土を守るためいかに多くの智慧者が辰巳栄一のごとく、表に出ず、歴史に忘れられながら頑張っていたことか。

 辰巳よりほぼ30年早く、横井小楠の教えを受け継いだ縁者を叔父に持つ、明治元年熊本に生まれ、ロシア帝国情報が大切と自ら志願しロシア防諜に身をもって人生をかけた軍人に石光真清がいる。長男石光真人が父の手記をもとにまとめた伝記四部作『石光真清の手記:城下の人・曠野の花・望郷の歌・誰のために』がある。別の機会に纏めたいと考えているが 明治初期 子供時代の西南戦争時の兵士との戯れから昭和17年日英戦争せざるを得なかった頃までの日本の家庭教育の姿,人生の流転、軍国時代に入る社会の姿が見える。歴史に忘れられた市井の一人である。

 半藤一利は70年総理大臣談話に関し先日のBSNHKで語っていた。「力による外交でなく情報力による外交を、そのためには日露戦争史を学ぶことだと」この中に70年談話で日本が発信する智慧があるように考えているが。

 辰巳栄一元中将は昭和63年2月17日93歳で没した。港区界隈の興国山賢崇寺という佐賀鍋島家の菩提寺に墓があるという。吉田退陣後はすべてから手を引いた。(了)