岩波書店「最後の日本人―朝河貫一の生涯」阿部善雄著1983.9刊

 前回会津を取り上げた。今回も取り上げる。厳密には二本松である。表題の本は隋分古い本である。30年前の本である。最近の本に『朝河貫一とその時代・矢吹晋著・花伝社・2007・12刊』がある。
ところで会津藩保科正之は 徳川3代将軍家光の弟であるが庶子ゆえに、7歳で信州高遠藩保科正光の養子に出され さらに出羽山形に転封 その後1643年奥州会津藩に移封となった。33歳の時である。会津松平家の士風は「秋霜烈日」で形容されるという。出羽山形藩時代の保科正之が築いたともいわれる。鶴ヶ城近くの藩校日新館で藩士に対し厳しく儒教中心の教育を行った。10歳になって日新館で学ぶ「日新館童子訓」は、五代藩主の編纂した訓話集であるが「ならぬことはならぬものです」という「什の掟」など子弟の躾に定められた。その教育の流れが「会津魂」としてその後の子孫に語り継がれた。

 戊辰戦争後京都で新島襄同志社を興した山本覚馬。4歳にして唐詩選の五言絶句を暗唱、藩校日新館で頭角を現し22歳で江戸に行き、勝海舟佐久間象山の塾に入り 25歳で再び江戸で蘭書を学び洋式砲術の研究をやったという。34歳の時京都守護職になった藩主に従い京都に往く。そこで西洋式軍隊の訓練また洋学所を興し洋学の講義を行ったという。勤王・佐幕で争っている時ではない、動乱の中新時代を見抜いた会津武士だった。
 禁門の変鳥羽伏見の戦いなど幕末の時代、武人としての人生かと思いきや、それからがこの会津人の根性なのだろう。捕われの身でありながら薩摩藩に対し22項目の建白書なる「管見」を提出する。その中身は「三権分立の政体」から「郡県制への移行」、「世襲制の廃止」、「税制改革」、「女子教育」など多岐にわたるものだった。覚馬を捕虜として捕まえた薩摩藩も人物の優秀さを知っており、粗末に扱わなかったという。
 そしてその後アメリカ宣教師の「天道溯源」を読み、共鳴し、キリスト教こそ心を磨き進歩を促進する力と信じて新島襄に維新後購入した土地を学校用地として譲渡し、同志社建設の新島の右腕になってゆくのである。明治25年64歳で没するが 京都において科学技術の振興、日本初の女学校「女紅場」を開設するのである。明治18年キリスト教の洗礼を受ける。同年 京都商工会議所会長(会頭)となる。ちなみに新島の父は70歳で洗礼を受けた。京都というもっとも保守的で日本的な地におけるキリスト系学校の建設、また当時仏教徒からキリスト教徒になる日本人としての生き方。並大抵のことではあるまい。現にまだ、キリスト教の信者への弾圧が残っていた時代である。その覚悟の大きさを感じるのである。山本覚馬は次女を横井小南の息子 横井時雄に嫁がせ、新島襄を支えてゆくことになる。

 会津魂を感じさせる明治以降の会津人のその後は 戊辰戦争の籠城戦で軍事総督にあたった山川大蔵は当時23歳、その後西南戦争で功績をあげ、晩年貴族院議員となった。弟健次郎はアメリカに行き、帰国後 東京、京都、九州帝国大学総長となった。薩摩長州との降伏の交渉役の秋月悌次郎は熊本第五高等学校教授として若者の教育に当たったという。まさに明治人の気骨そのものといえる。12,3才の柴五郎少年はその後下北,斗南藩に流され飢餓生活を乗り越え、陸軍大将、台湾軍司令官となる。ただ、戊辰戦争前後河井継之助との連携を取ったり、奥羽越列藩同盟の結成の中核であった政務担当家老梶原平馬はこの当時25歳だったといわれているが斗南藩の開拓失敗後の晩年の姿はわからない。藩を守ろうとした会津武士はいずれも20代半ばの有為の人間だった。

 さて会津が長かったがここでもう一人会津に近い二本松から出た明治人を取り上げたい。
二本松藩士の次男で戊辰戦争時 白虎隊の若松少年隊と同じく、安達太良山で戦った二本松少年隊の生き残りを父に持つ朝河貫一博士。阿武隈山麓の寒村に明治6年1873年)に生まれた。父 朝河正澄は貫一の生まれた翌年、教員資格を獲得し校長格として小学校に勤める。「我が道一を以て之を貫く」。父は5歳そこそこの息子に「古近史談」「日本外史」「四書五経」など教え始めたとされる。「この父にしてこの子供あり」。この父正澄は貫一が明治28年(1895年)アメリカに渡り10年ぶりの明治39年(1906年)2月の帰国時二本松から横浜までやって来て再会したその年の秋 没した。厳しく教育した息子貫一は7,8歳の時、12,13歳の学力があり その地域伊達郡内の学力比較試験で常に最優秀の成績だったという。神童とか、朝河天神といわれた。
 苦学しながら東京専門学校(のちの早稲田大学)に学ぶ。
前回取り上げた新島襄、13歳で青森県庁の給仕になった柴五郎少年、同じく後藤新平 必ずこの時代人生の縁のある人にめぐり逢っている。
新島はアメリカ人で ピューリタンの実業家ハーデイ。ミドルネームを使わせられるくらい信頼された。アメリカ名 ジョセフ・ハーデイ・ニイジマである。柴五郎少年は熊本細川藩士の石光真民末弟で横井小楠門下の野田裕通。後藤新平は同じ横井小楠門下であり、江戸城引渡し役を行った安場保和。朝河貫一の場合、本郷教会で牧師であった横井時雄に会うのである。「横井時雄」は、横井小楠の息子にして山本覚馬の娘婿で当時を代表する思想家である。牧師横井時雄とアメリカ、ダートマス大学タッカー学長の縁が貫一のアメリカの授業料、寄宿費用の免除となり、この縁がその後の貫一の信仰生活、資金のないアメリカ留学に大きく道を開き日本人で初めてイエール大学(当初はダートマス大)入学となる。その後大学院歴史学科に進み 2度の短い帰朝を除き約半世紀アメリカ史学界で生き抜くことになる。3年毎の実績が上がらない場合 契約打ち切りのアメリカの大学教授の厳しさ。想像に難くない。昭和12年(1937年)エール大学歴史学教授となる。昭和23年(1948年)アメリカ、バーモント州で没する。74歳。

 今 日本は韓国とは「竹島問題」中国とは「尖閣諸島」ロシアとは「北方四島」の外交上の問題がある。
日清戦争時は朝河が東京専門学校学生のとき、日露戦争は朝河がイエール大学大学院を出た直後に起きた。
100年前の1909年「日本の禍機」という本を著し「日本は天下に孤立し、世界を敵とするに至るべし」と予言したが36年後予言通りになった。
 当時の日本は日露戦争に勝利した後、韓国併合満州国建設、日中戦争拡大、太平洋戦争に入り敗北した。
100年前の本である。本書「最後の日本人」に収録されているその部分を読むと、その当時の貫一博士の見識は今読んでも新鮮である。何せヒットラーの自殺を予言した詳しい精神分析の内容も載せてある。

 もう1つ。日本の1140年から1640年という5世紀に渡る期間の封建時代の文書「鹿児島県薩摩郡の入来村文書」を研究し、「豪族入来院氏と鎌倉、室町の中央政府との交渉過程の文書調査」、「周辺豪族との交渉文書」、など入来村という狭い地域の古い文書の長い変遷を通じて 日本の封建社会の構造を学問として体系立てた「西洋の封建制度との比較研究」が「朝河史学」となりエドウインライシャワー元駐日日本大使の研究が「朝河史学」の系譜を引いたということである。朝河貫一が入来訪問は1919年、ライシャワー氏が訪問したのは1962年という。一般的関心からは程遠い話題ではあるが、かような日本人が二本松から出て明治期、世界で活躍したのである。二本松少年隊の父のDNAを受け継いで。(了)

講談社「めぐり逢いー新島八重回想記」鳥越碧著2012・11刊

 「日本人の精神力」が一番強く、逆境にありながらも 向かい風にもめげず粘り強く戦う力を持ち合わせた風土があるとしたら、どこだろうと考えたとき、それは「会津周辺・はからずも戊辰戦争で敗戦に追いやられた地方」ではなかろうかと、少々一方的だが考えている。但し現在の風土が過去のDNAを引き継いでいると想定しての場合である。戊辰戦争で敗戦したにもかかわらず明治の後半それ以降各界に優れた人材が出た。
 幕末会津藩が大局的立場から時代の波を見ようとせず、(徳川の縁戚としてやむを得ずが妥当な表現か)、京都守護職という幕命に従い京を守ることから、非運の一途をたどることになったのだが、その後家臣のDNAを引く子孫はそれに負けなかったのである。
 本書は読むと新島八重の伝記でなく、その夫同志社大学創立者新島襄の伝記である。さらに新島襄会津でなく安中藩の出身となれば八重の兄
で、幕末から明治にかけ、新島襄の最大の理解者、支援者となった会津藩時代は砲術師範 時代が変わると、大学経営者になった山本覚馬という会津人武士の生き方が興味深い。
 この時代の10代後半の青少年(?)は砲術、航海術などの先端技術を身に着けようと、自らのあらん限りの智慧で目的に向かって走っている。
今でいうと再生医療なり,あるいは宇宙技術か。新島襄(七五三太)も密航してアメリカに渡るのであるが、一つ間違えば,長州の吉田松陰のように死罪ものだった。
 安中藩という支藩の限界を自覚し、本藩にあたる備中松山藩に航海術を学ぶためと称した工作が成功し函館に行く。さらに自身が海に落ちた工作をし上海行きの船に乗り、そしてアメリカ行きの商船に潜り込み渡る。あらん限りの智慧と、手づるを使い努力する様はいつの時代も同じで、挑戦せずむしろ決められたレールを歩んでいる人間を評価してきた結果が今日の停滞社会の一因かと考える。

 前回のブログで少し取り上げた「ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書」に語られる戊辰戦争で敗れた一家の現状はその「逆境・向い風」の状況がわかる。本書「めぐり逢い」よりこの「柴五郎の遺書」のほうが凄まじい。まだ11〜12歳の少年.会津落城し下北半島流浪の苦しみの果て斗南藩に追いやられ、蓆(ムシロ)だけの家で飢餓生活を強いられる。「柴五郎の遺書」から抜粋する。『真に顧みて乞食の一家なり。会津に対する変わらざる聖慮の賜物なりと泣いて悦びしはこのことなりしか。何たることぞ、この様は。お家復興に非ず、恩典も非ず、真に流罪にほかならず。擧藩流罪という、史上かってなき極刑に非ざるか。余 少年とはいえ、これほどの仕打ちに逢いて正邪の分別つかぬはなし。』
このような環境から兄弟の力により、脱出してゆく。極貧に置かれた五人の兄弟が其々すぐれて、其々の道を行く姿も兄弟愛、親の厳しさもあればこそと思える描写もある。今の社会からは遠いが大切なことである。極貧から脱出の過程で熊本細川藩の石光真民の末弟で横井小楠の門下となった野田裕通の知遇を得て弘前県(その後青森県)の一給仕になった13歳から人生の階段を87歳で没するまで登ってゆく。
 横井小楠といえば、岩手県水沢藩の後藤新平もまた横井小楠を師とし,小楠四天王の一人といわれた安場保和により学僕として給仕に採用され能力を開花させてゆくことは、このブログ2009・5・7「後藤新平・日本の羅針盤となった男」に書いた。同じ過程である。安場も、野田も30才前後の日本の男である。戊辰戦争で負けた側の少年の能力を見抜き育てるという現代日本で最も欠如した「もの」を持っていたのだろう。そういう点で了見が広かった。何しろ現代は若者使い捨ての時代である。

 本書「めぐり逢い」の中で、熊本藩薩長土肥に後れを取ったということで、細川護久藩知事明治4年に創った「熊本洋学校」から集団で新島の創った同志社に入学し、その後新島の同志社でのキリスト教育に参画してゆくことが描かれているが、その中に横井小楠の息子が新島の娘と結婚し、学校の基盤創りに参画してゆく縁(えにし)が描かれている。

 この柴五郎の生き方と新島襄の生き方は相通じるものがある。もっとも片や軍人の世界と 片やキリスト教育にかける違いはあるが、志を立てて一途を歩む日本人の姿は筆者には違いがなく映る。
明治時代は新教・プロテスタントの時代という人もいる。明治の気質とプロテスタントの精神がよく適ったという。勤勉,自律あるいは自助、それに倹約がプロテスタントの特徴なら、明治もそうだったと。

会津人八重の兄の山本覚馬禁門の変、鳥羽伏見の戦争で失明したものの、その後古い価値観の強かった京都で住民の反対を受けながらも新島襄の片腕となりキリスト教大学を創立するのである。しかもその後京都商工会議所会頭になったという。

ハースト婦人画報社「依田勉三の生涯」 松山善三著・2012・5刊

   『指一本動く限りは十勝野の土を握りて放さぬ。何故か この豊饒の沃野を不毛に終わらせるのは子々孫々への恥と思うからだ。』
   『十勝野には無限の富がかくれている。それを摑むのは、君たちの手だ、汗だ、血だ。』


 数年前、ある郷土史家の文章で「依田勉三」という人物を知り関心を持った。、昨年5月出版された、映画監督松山善三著「依田勉三の生涯」を年末から正月にかけ読了した。冒頭の言葉は、同著の表紙、裏のカバーに書かれた言葉である。力強さを感ずる。


明治初期、戊辰戦争を含む明治維新後の各地における士族の反乱で敗者側は、下北半島への移封や屯田兵として北海道開拓に送り込まれた。

明治2年7月、蝦夷地が北海道と改められた。
明治3年8月、民部省内に開拓使が発足し、全道11か国86郡と定められた。(民部省は後に大蔵省に併合)
明治4年、 明治3年に置かれた樺太開拓使開拓使に併合。 
明治5年、 北海道開拓使として長官は東久世公爵 黒田清隆が長官代理として指揮し、札幌、石狩、道南を拓く10年計画策定。
     北海道は全道未開、十勝野は論外の未開地域だった。開拓使は未開地域の開拓を行う太政官直属の役所で本庁を当初東京に、明治     4年には札幌に、開拓事業の終わった明治15年開拓使を廃止し函館県,札幌県、根室県の3県を置き,明治19年3県を廃止し、北海     道庁を設置した。


 4年前 2009年1月から3月にかけ、上野の東京国立博物館表慶館慶応義塾創立150年記念として「福沢諭吉展」が開催された。
その中の数多い展示の中に あばら家を背にぼろぼろの衣装を身に着け,地べたに座っている乞食姿の「依田勉三決意姿」の写真、「依田勉三アイヌ姿」の写真、「帯広開拓地の図」のほか十勝野関連の何点かが展示されていたのを記憶している。小説では北海道に立つ前に写真屋を呼んで撮影させたとあるが、まさにそこまで覚悟して取り組むという迫力ある写真であった。(当初は開拓時の帯広の写真かもしれないと判断したが表情は若さがあり出立前の決意の姿と思われる。)

依田勉三の北海道入植は、時代的にはこの屯田兵制度の終了する時期の明治15年である。

 勉三はこの年1月1日土地開墾、開拓,耕作、牧畜、造林を目的として静岡・天城で「晩成社」を設立登記し,13戸27人で「オベリベリ」と称する現在の帯広近郊の十勝原野に入植した。今でいう構想の大きなベンチャー起業家ではなかったろうか。

時代背景は「釧路―帯広」間の釧路線開通が明治38年、「旭川ー札幌」間の十勝線開通が明治40年といわれ 20年から25年早かった入植といわれる。

 依田勉三は1853年(嘉永6年)伊豆の豪農の3男として生まれた。このブログで取り上げた九鬼隆一が1850年嘉永3年)、東洋大学創立者井上円了日本女子大創立者成瀬仁蔵が1858年(安政5年)の生まれであるから同時代に生きた男である。
明治6年横浜でスコットランドの伝道師ワッテルの英語塾で学んだ後、福沢諭吉慶応義塾へ進む。
 北海道開拓への野心は、当時辺境でほとんど耕作地のなかった天城山麓を中心に、伊豆、駿河、相模、などを開拓し、「開拓済民」を天職とした二宮尊徳翁に傾倒したようであるが、同じ志の仲間に当初は電信技師をめざして工部大学に入り、その後勉三とワッテル英語塾で知り合った渡辺 勝も明治政府の開拓使顧問で元アメリカ農務局長の「ケプロン」報告書を読み、開拓に志した。また鈴木銃太郎という旧上田藩士の子孫も伝道師の道を捨てて父親、妹とともに開拓地へ向かったという。この妹はこの時代、英語も読め 開拓地では子供たちに農学校を目指させた教育を行ったという。入植したとき勉三は30歳、渡辺勝28歳、鈴木銃太郎27歳だった。夢の大きな青年達だった。この3人が中核となる。

 開墾は思うようにいかず、収穫高が計画から程遠く、3年 4年で脱落者が出はじめたという。
北海道開墾の内容は小説に譲るが、当時の実際の開拓、開墾の凄まじさを今日に伝える書で、読了後より胸を打つ著書は『石光真人著・ある明治人の記録・会津人柴五郎の遺書』であろう。戊辰戦争下北半島斗南藩に移封された旧会津藩士一家族の置かれた環境と当時10歳の柴五郎少年が体験した苛烈極まる不毛の地での開拓、公表をはばかる悲惨な飢餓生活を伝えている。心打たれる名著である。

 勉三達の道なき奥地の開墾、旱魃 霜害、イナゴの食害、息子の夭逝、実弟の死、幾多の困難を経て、明治26年には,澱粉工場,亜麻工場、畜産会社を興す。明治44年には乳業、缶詰工場、ハム工場を起こしたものの、しかし成功したわけではなく財産なく借財のみで、莫大な負債を抱いて、「晩成社」は四分五裂し、解散する。土地は一坪も残らず、借財の返済に充てられたという。

大正14年73歳で帯広で生涯を閉じた。

依田勉三の生涯」にしろ、「柴五郎の生涯」にしろ明治人の生き様は現代の教育にぜひとも必要と考える。NHK大河ドラマで明治の会津女性山本八重が取り上げられた。これからの女性の生き方の大いに勉強になる偉人である。現代は女性が上位。いわんや依田勉三・柴五郎は?、古いだろうか?『学ぶべきものは学べ、学んでならないものは学ぶな、ダメなものはダメ。』(了)

2012年末に。草思社「親日派のための弁明」金完ソプ著2002・7刊

 3年余りの民主党政治から自民党政治に戻る。3代続いた。大体3代で終わるとよく言う。民主党もそうなった。期待が大きかっただけに期待が外れると、腹が立つ。それでも目線を低くした政治もあり、少しは評価してもよい部分もある。
 「高校授業料無償化」。この20年デフレの進行で、親の失業という家庭の事情で高校に行けなくなり、かつ就職試験の際の面接に着る制服も買えない頭の良い高校生が、フリーターとなり野宿するルポルタージュが3〜4年前自民党政権時NHKで放映され心を痛めたが改善されたであろうか。今後自民党は所得制限を検討というが、今どきの財政事情からやむをえまい。働き口がないといって生活保護を受け取っている若い人が多い。雇用主に就業手当を補助し、介護現場などの雇用がもっと拡大しないのかと考えるが、復興と同じく遅遅たるようだ。
 民主党の「防衛」「教育」は最後までだめだった。特に「教育問題」は今回総選挙のテーマで語られた記憶がない。「学力低下」「いじめによる自殺」が頻繁になっているのにである。
 この点自民党は早速次の政権で「教育委員会改革」など具体的に取り上げハギレ良い。早速教育に通じた大臣を配置し取り組むようだ。期待している。
 今年は,昨年8月に続き、厳寒の2月韓国を訪問したこともあり、朝鮮の歴史を「古代朝鮮」「高麗」「李朝」「併合時代」「動乱」「戦後政治」をテーマにして何冊かの本を集中して読んでいる。研究者、ジャーナリスト出身などの日本人の著書に限らず韓国で活躍している現役の研究者の書いたものを探し読んでいるが、表題の本の著者は本書で初めて知った。ソウル大学物理学部天文学を専攻した経歴を持つ。10年前に出た本であるが、韓国ではベストセラーになりながらも有害図書指定の本という。日本では公平な立場から書かれた日韓の歴史書と紹介され、韓国に活動の場を持ちながら書いた勇気のある本の著者でもある。10年前まだ40代の若い韓国の世代にこのような研究者が出現していることは素晴らしいし、日本人の中からも出て、いい日本ー韓国関係を形成してほしい、と願っている。竹島のような愚かなことは卒業して。
 同著者には「親日派のための弁明2・2004・11刊・扶桑社」「日韓禁断の歴史2003・11刊・小学館」がある。また同著者が韓国内で良識派だと評している李完用の子孫の李栄薫(イヨンフン)著に「大韓韓国の物語」がある。
 国内ではいろいろの研究者、ジャーナリスト出身の書かれた本があり、ここでは取り上げないが呉善花著「韓国併合への道」(文春新書)はまとまり、深い内容で読みやすい本だ。今年秋に改訂版が出た。最後の2章現代の時事に合わせ追加改訂している。
 朝鮮の歴史全体を見るに三省堂朝鮮史研究会編が20版重ねた「朝鮮の歴史」が物語的に全体の歴史の流れを俯瞰できる。特に李朝の初期は賢帝が出たが20代以降は勢道政治、垂簾政治が行われ,賢帝とは程遠い政治となった。官職を金で買うなど国内政治は乱れた。そこに若い有能な官僚、金玉均(キムオクキュン)たちが日本の福沢諭吉に学んだりして朝鮮の文明開化を求め、改革を志した。
 小説では角田房子著「閔妃暗殺」が日清・日露戦争時の翻弄される李朝宮廷内の権力争奪に有能な若い改革青年が次から次に犠牲になる姿が描かれていて、「韓国併合…」「朝鮮の…」に書かれた歴史の変遷を再度確認できる。
 マスコミの情報でなく、いずれかが正義かはやはり1800年頃から1940年頃までの朝鮮に対する西欧、米、中、露各国の関係の中で日本がどういう行動をとったかで判断すべきで、「自虐視」思想でなく、日本人の中にも 朝鮮独立運動家を支援し、「日本のシンドラー」と呼ばれ 2004年10月に韓国建国勲章を日本人で唯一授与された「布施辰治弁護士」という東北出身の日本人がいることを忘れてはいけない。この勲章を授与された日本人は他にいない。布施辰治については「弁護士布施辰治・大石進著・2010・10刊・西田書店」という著書がある。

集英社新書「TPP亡国論」中野剛士著2011・12刊。

 衆議院が解散されて2週間目。

 第3極といわれる政党の収斂が進んでいる。昨年東日本大震災による原子力発電事故という大災害を受けながら この問題を前面に出し最大の「公約」に取り上げるべき政党が出現し、原発政策を議論してほしいと考えていたが、ようやく、女性党首の「日本未来の党」が出現した。
 橋下市長に期待したが、案の定ぼけ始めてきた。今週末、来週末の支持動向が気になる。

 今回の総選挙のテーマに「TPP問題」がある。3年前の民主党に大いに期待したが3年間でまったく、影も形もなくなった感じだ。
この問題は、昨年秋に菅 当時の総理のとき、突如として出てきた。今度の総選挙では、この問題は、農業従事者の投票に絡むだけに民主党自民党とも、表現こそ違うが取り組み方は同じに映る。
 
 本書で著者の主張する論はデフレ進行のこの時代、まだデフレがストップしていないこの時期に、さらなる自由化競争はさらなる価格の下落を招くとし、また、民間の資金需要のない時代、金融政策だけでは景気好転にはならず、政府部門が財政で積極的に出動を図り、景気の好転後にすべきだと主張する。
 新自由主義の競争はいいが、その後遺症は現在の日本経済にいたるところで表れている。イギリスのサッチャー時代、アメリカのレーガン時代はインフレの時代での規制緩和などによる自由化競争は、理論的であり自由化競争は有益であった、という。現在の日本はそのような時代ではないと分析する。

 著者は「経済ナショナリズム」を専門とし、英国エデインバラ大学より社会科学の博士号取得し、経産省産業構造課課長補佐という経歴の官僚出身の新進の学者である。最近興味深い著書を出している。
 TPP交渉の戦略の在り方、米国との経済交渉は、増大、膨張する中国の力に対し日米安全保障を踏まえながら、単なる経済理論でかたずけらない問題を考えねばならない、など興味ある内容が多い。

 日米とは、過去日本の高度成長時代、日米繊維交渉、資本自由化などいろいろの大きな山を乗り越えてきた。しかしこれからの日本は成長の条件の少ない与件で戦わざるを得ない。「知財戦略」「FTA/EPA」戦略と合わせつつ、門を開く時代だろうと考える。
この問題、今度の選挙の各党がどう主張するか。実行力を含めて試されるのではなかろうか。(了)

徳間書店「グローバル経済に殺される韓国、打ち勝つ日本」三橋貴明著2012・6刊

 意外な著書であった。むしろウオンの通貨安戦略で日本よりグローバル経済で一歩先を歩いていると考えていた韓国経済が実はそうではない。格差も進み、失業率も実際は20%近いという。
 一度はIMFより支援を受けた韓国大企業の株主比率は50%以上が外国資本であり、配当は国内に落ちず海外に持っていかれるという。このため、仕事は厳しいのに対し、さほど国民は遇されてはいないという。国内消費は落ち込み国内景気は悪化という。

 実際 韓国主要研究機関の一つである韓国開発研究院(KDI)の成長率予測は、5月には2012年の実質成長率3.6%、13年を4.1%が 9月の予測は其々2.5% 3.4%ということが過日の日経紙で報道されていた。エコノミスト誌も10月16日号で「沈む韓国」という特集号を組んでいる。

 今日本国内ではTPPの議論 FTAの議論が賛否分かれるが、一歩先を歩いた韓国経済、もっと先は十歩先を歩いた南米の何ケ国を参考にして考える必要があるし、何をやっているかわからない民主党政権の経済、通貨戦略の必要性を感じる。以上

中公新書「韓国とキリスト教」浅見雅一・安廷苑著・2012・7月刊

 隣国、韓国について「古代朝鮮」「高麗」「朝鮮王朝」とあまりこれまで読んでこなかった「隣国の歴史」を勉強している。特に客観的記述に注意し冷静に読んでいるが、三省堂朝鮮史研究会より1995年から10刷以上出版されている「朝鮮の歴史・新版」が整理された内容で「読本」として読みやすい。併せ今回は標題についての事実に興味があったので出版直後早速手にした。
 今回は私見をいれず日本と同じグローバリズム経済で闘っている現代韓国の宗教の背景について本書に沿って考えてみたい。
 共産中国は別にして、同じ漢字文化 国教として儒教の強かった韓国がキリスト教信者の多いのは何故か?詳しい内容は本書の熟読を願うとして、先ず統計上の韓国の宗教人口構成は、2005年調査の韓国統計庁の発表によると総人口4728万人中、「宗教あり」と答えた人は53.1%逆に「宗教なし」と答えた人は46.5%、「あり」のうち「仏教徒は43.0%」「プロテスタント34.5%」「カトリック20.6%」「儒教0.5%」と言う。全人口では夫々「仏教徒22.8%」「プロテスタント18.3%」「カトリック10.9%」である。(2010年12月現在の人口は5143万人。)
 韓国はキリスト教徒が多いと言われるが仏教徒もそれなりに多いことがわかる。日本ではキリスト教を合わせて考えるが、韓国では厳密に区別しプロテスタントを「基督教・キドッキョ」あるいは「改新教・ケシンギョ」,カトリックを「天主教・チョンジュギョ」と呼んでいる。一般に「教会」は「プロテスタント教会」を指し、カトリック教会は「聖堂・ソンダン」と呼ぶ。
 「何故、幾多の弾圧、迫害にも拘わらず、日本と異なりキリスト教が根付いたのか」
日本では遠藤周作の小説に見られるように徳川初期にその弾圧は激しかったが、朝鮮では朝鮮王朝末期の第26代高宗の父,興宣大院君の時代に各地で激しい弾圧があった。その後の「併合時代」を通し 民衆に根付いた背景、朝鮮の歴史の中、他民族より侵略を受けつつも抵抗し 国内の弾圧を受けながらも民主化を求めた知識人、民衆の儒教を踏まえた強い底力が「天道教」を生みそれが遠因となり日本の併合時代に耐え、その後アメリカから入ったプロテスタントの影響が儒教社会にもかかわらずキリスト教国になったのではと感じるが。九州に近い釜山は仏教徒が多いという。