藤原書店「小説 横井小楠」小島英記著 2013・3・30刊

 明治維新後、戊辰戦争敗者側の少年たちの資質を見抜き人材教育を行った新進官僚の中に、小楠の門下生が何人か歴史上に現れる。後藤新平少年を給仕として雇った安場保和は小楠門下四天王の一人といわれた。山川健次郎とともに会津が生んだ明治人の一人柴五郎少年を育てた野田豁(ひろ)通、 安場は福島県知事、愛知県知事、福岡県知事をやり、野田は熊本細川藩の石光真民の末弟に生まれて野田家に入籍し,横井小楠の門下となり、東北各藩の子弟の救済にあたった。後の男爵陸軍主計総監となる。

 ようやく「小説 横井小楠」を読了した。

 80余歳の先輩が「記録をしながら書を読んでいる」と聞いて以来ブログ筆者も数年来そのようにしている。そのまとめたメモを後日読むのもあとからいろいろ考えさせてくれる。

横井小楠』、1808年に生まれ、 明治2年(1869年)没。61歳。肥後藩で生まれたが本書によると、肥後藩では終始煙たがられたようだ。反対に前田藩に対する備えとして、徳川家康の次男結城秀康を先祖にもつ、福井藩の16代藩主松平慶永、のちの春嶽にその見識を請われ、福井藩に招聘されてから、その持つ学識を思う存分生かし藩政改革に手腕を発揮する。さらに春嶽が幕府総裁職になると、ブレーンとして幕政改革を行った。肥後藩は小楠の福井藩での登用を最後まで反対した。百数十年前であるが現代と何か似ている。

本書を読み、2,3書き残したい。

 小楠は、『国是三論』という文武節倹策から積極富国策へと転換させる国家政策論の中で、「富国論」、「強兵論」、と並ぶ「士道論」の中で「文武両道」という言葉の根本に言及している。日本の中世争乱の時代、有識の武将は、権謀、智術、剛勇だけでは,衆を服し、国を治めるとかできないと悟り、心の鍛錬に励んだ。教える者も,学ぶ者も心法を先にし、武術という技芸を後としたから、技芸に長じたものは、必ず、政事(治)を担当する心構えが身についた。その後太平の世が続き、小手先の技芸のみが優先、数家の免許状を得て、名声を上げ就職の手段とするようになった。当初「心法」を大切にした言葉として、例えば柳生新陰流の教えの中に、「心こそ、心迷わす 心なれ 心に心、心ゆるすな」とある。また「柳生家家訓」に「小才は縁に出会って,縁に気づかず、中才は縁に気づいて縁を生かせず、大才は袖すりあう縁を生かす。」と。元来「武」は士道の本体であるから、武士であると心得ているものは綱常という道徳規範に従い、君父に仕え、朋友と交わり、家を斉え、国を治める道を講究しなければならない。わからない場合の道理を聖人の経書に求めた。武の文たるゆえんである。
 これらの言葉は現代社会でも十分あてはまる教えである。「知識=技=武」ばかり先だって「心=思想=文}がなければいつかは行き詰まる。小楠は後世になって文武を2つに分けて並立させる考えは古意に反するものであると主張した。同感である。

 小楠の思想は、幕藩体制の危機感より、儒教を再認識しながら朱子学の本来の道理を古典に遡り正確に理解することを説いた。国家の在り方は堯舜という君子に見られる古代中国の民を豊かにする儒教的君主国家の「すがた」である。彼の考えは実践的、合理的な行動を目指す「実学党」として広まったものの、伝統的な儒学を擁護する肥後藩藩政主流派の「学校党」に敵視され、藩では採用されなかった。
この「学校党」の系譜をひく「国権党」との確執は 小楠没後も続き、明治に入り15年まで続いた。

 「君 君ならずとも臣臣なるの道を尽くす』の考えには小楠は反対し、「君」が「君」の力を備えなければ変えるべきという現代では当然の理論を主張した。徳川一家のための幕府政治、大名一家のための藩政治でなく民意を尊重する政体を主張した。

 小楠の思想を更に強固にしたのは『海国図志』という書物を読んでからである。『海国図志』はアヘン戦争で敗北した清国の林則徐が米国公理会より中国に派遣された宣教師 E・C ・ブリッジメンの著した地理誌「聯邦(れんぽう)志略」を翻訳したものに、さらに造船、火薬製造,化学などの技術解説を付加し魏源が1843年に刊行した本である。100巻つくられ日本にはキリスト禁制のため3巻輸入された。あの川路聖謨が即座に重要性を見抜いたという。小楠もこれを読み世界観を一層強固にした。
 当初は「無茶無道と思ったアメリカが、意外や有道の政治をやっている。自分の考えと近い」と。「ひとまず屈服して和を結ぶという幕府、や水戸は間違い。夷狄並みの政治になるように改革する」とより一層意を固めた。

 本書を読み、ある人物の見方を変えた。岩倉具視である。
明治政府の三職(その後官制が変遷するが)という総裁、議定、参与という重鎮に小楠を制度局判事から参与に推挙しさらに従四位下に任じたのは岩倉という。
岩倉は明治天皇の初期の君主としての人間教育にも小楠の意見を聞いた。はたして維新直後の明治2年 時代についていけない愚かな自国民により暗殺され、1869年没するが、その後を引き継ぐのが、冒頭述べた安場保和であり、野田豁(ひろ)通である。時代は引き継がれる。明治に入ってからの明治日本人の姿は、明治元年熊本に生まれた石光真清の4部作の手記に詳しい。研究材料として取り組もう。(了)