文芸春秋「孤愁・サウダーデ」新田次郎・藤原正彦著2012・11・30刊

 フランスの「シャンソン」、イタリアの「カンツオーネ」、スペインの「フラメンコ」と並んで、聴く人に何とも言えぬ「哀調」の響きを持つ音楽に、ポルトガルの「ファド」がある。
「孤愁」、日本語で書くと、いまいちであるが、ポルトガル語「サウダーデ・saudade」と書くと、その言葉のもつ響きが「ファド」と相通じてなんとなく伝わってくる。「ファド」は愁いを繰り返し、繰り返し訴え続ける歌曲である。「孤愁」という言葉は「広辞苑」第二版にはこの言葉はないが「広辞苑」第六版になると出てくる。こしゅう「孤愁」:一人でいることの寂しさ、孤独の思い。

 著者新田次郎は前半の小説で「孤愁」は故国を慕いながら帰ろうとしなくなる。帰ろうと思えば帰れる、だが帰らない、帰るべきでないという気持になっていくと語り、藤原は更に付け加えて、過去を思い出すだけでなく、そうすることによって甘く悲しい切ない感情に浸りこみ、その感情の中に生きることを発見する・・・・・と語る。

 いい小説だった。久しぶりに落ち着いて読むことのできた小説だった。
前半「日露開戦」までは父親新田次郎毎日新聞に連載中、1980年2月突然亡くなるまでの作品であり、後半は息子藤原正彦が父の没後32年かけ、父の訪問した処を訪れたり、父の残した文献すべて読んで、昨年11月出した小説である、と、あとがきで触れている。

 時代は120年から130年前日清戦争日露戦争の時代、ポルトガル国元海軍中佐であり、元神戸、大阪総領事で一時はイタリア国領事、神戸筆頭領事を兼任し文筆家として名を成した、ヴェンセスラオ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエスの生涯を題材にした小説である。神戸市に「モラエス銅像」があり、徳島市に「モラエス博物館」「モラエス通り」がある、という。モラエス1854年ポルトガルリスボンに生まれ、1875年(明治8年)21歳で海軍士官となり34歳までアフリカ、インド、アジアの各地を航海していた。1888年明治21年)34歳でマカオに港務局副司令官となり、赴任した。翌年1889年海軍軍人として日本を訪れ、その後外交官として、日本で初めて領事館開設される公使に随行,1898年(明治31年)11月44歳で神戸、大阪ポルトガル副領事となり、後に総領事となった。1854年生まれとなると、このブログで以前ふれた後藤新平(1857年)、日本女子大創立者成瀬仁蔵(1858年)、 岡倉天心の理解者九鬼隆一(1850年東洋大学創立者井上円了(1858年)達と同じ時代を日本で生きたポルトガル人である。

 副領事となった1898年前後は 世界は1898年米西戦争、1899年から1902年ボーア戦争 1914年第一次世界大戦と流れ 日本では1894年日清戦争明治27年)から1904年日露戦争その時代である。いはば、植民地争奪の時代である。

 神戸、大阪総領事となり名誉も富もあったポルトガル国籍の海軍中佐が 神戸在住中芸者おヨネという日本女性を見初め、恋をし、おヨネ亡きあとは海軍士官、外交官などのすべての官職を捨て日本の地に骨をうずめる覚悟でその妻の郷里徳島に居を移し、しかもその時代は世間から洋妾(ヤシャメン)と陰口された妻の郷里で墓守しながら1929年7月、75年の人生を終える。

 その当時の日本あるいは日本人のどの部分に心が動かされ、故郷を思いながら生涯を終えたのか。1891年外交官として来日以来38年間一度も本国に帰らなかったなど、研究家の間では現在もその対象にされているという。
著者山岳小説家新田次郎はこの郷愁、孤愁に流れる感情の表現に作家として強くひかれたのだろう。と筆者は思う。

 モラエスは当時の日本を見て、彼がそれまで見たり接したりしたヨーロッパ近代文明の行き着いた先の工場労働者の姿、アフリカ、インドで見た植民地の汚濁した都市の姿、利害損得のみの荒廃した精神だけの人達に対して、近代文明の対極にある日本の風景と細かな心情を持つ東洋にあこがれを抱いたのではあるまいか。
 彼は軍人、外交官のほか文筆家として卓越しかなりの著書を残した。毎月2週間ごとにポルトガルの「ポルト商報」という新聞に「日本通信」として日本賛美の随筆を掲載し始めたのが1902年である。日露戦争の2年前であったが日露戦争の動向についても外交官の目で的確な分析を行ったという。もっともこのブログ2013・3・15「最後の日本人」で取り上げたイエール大学日本人最初の教授朝河貫一もこの当時海外から的確な分析を世界に発信した。当時の同世代の日本人や同世代の外国人の真剣な生き方が想像できる。

 また「徳島の盆踊り」(今でいう阿波踊りか?)を見て彼は以下のように書いている。「日本人は日常的に死者を祭り死を語り、盆には死者の霊をむかえて一緒に暮らす。これがどれほどの人と心を慰め死の恐怖を和らげているだろうか。」と。モラレスのこのような文学的才能、洗練された審美的趣味そして、鋭い感性は青年時代よりあったという。恋の多い青年であったと研究家は語っている。没後はしばらくは亡き妻の遺族の音信は徳島から絶えたようだが。
 
 モラエスと同様、日本女性と結婚したヨーロッパ人にオーストリーハンガリー帝国の外交官として赴任したリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフカレルギーの父がいる。(このブログ2010・7・29に書いた「クーデンホーフ・光子伝」)。父は母光子とともに本国に帰ったが、息子栄次郎・クーデンホーフ・カレルギーEUを創った。


 現代日本の精神は当時と比べ、何が忘れ去られて、何を守ってきたのか、じっくりと考えさせられる小説だった。本書を閉じて考えた。モラエスというポルトガル人は日本人以上に、万物の美を観照する際に比類のない繊細さを発揮したポルトガル人でなかったかと。いまでもモラレス研究がなされている。「モラエスの生涯:岡村多希子・東京外語大1994年」、「モラエス・サウダーデの旅人:岡村多希子・モラレス会・2008年」、「モラレス会75年史:2010年・7月」などなど。
 彼の文章からは何かしら「素晴らしい繊細な日本画」を観ているような錯覚をうける。モラエスの書いた100年前の本を更に読みたい気がして来た。(了)