岩波書店「最後の日本人―朝河貫一の生涯」阿部善雄著1983.9刊

 前回会津を取り上げた。今回も取り上げる。厳密には二本松である。表題の本は隋分古い本である。30年前の本である。最近の本に『朝河貫一とその時代・矢吹晋著・花伝社・2007・12刊』がある。
ところで会津藩保科正之は 徳川3代将軍家光の弟であるが庶子ゆえに、7歳で信州高遠藩保科正光の養子に出され さらに出羽山形に転封 その後1643年奥州会津藩に移封となった。33歳の時である。会津松平家の士風は「秋霜烈日」で形容されるという。出羽山形藩時代の保科正之が築いたともいわれる。鶴ヶ城近くの藩校日新館で藩士に対し厳しく儒教中心の教育を行った。10歳になって日新館で学ぶ「日新館童子訓」は、五代藩主の編纂した訓話集であるが「ならぬことはならぬものです」という「什の掟」など子弟の躾に定められた。その教育の流れが「会津魂」としてその後の子孫に語り継がれた。

 戊辰戦争後京都で新島襄同志社を興した山本覚馬。4歳にして唐詩選の五言絶句を暗唱、藩校日新館で頭角を現し22歳で江戸に行き、勝海舟佐久間象山の塾に入り 25歳で再び江戸で蘭書を学び洋式砲術の研究をやったという。34歳の時京都守護職になった藩主に従い京都に往く。そこで西洋式軍隊の訓練また洋学所を興し洋学の講義を行ったという。勤王・佐幕で争っている時ではない、動乱の中新時代を見抜いた会津武士だった。
 禁門の変鳥羽伏見の戦いなど幕末の時代、武人としての人生かと思いきや、それからがこの会津人の根性なのだろう。捕われの身でありながら薩摩藩に対し22項目の建白書なる「管見」を提出する。その中身は「三権分立の政体」から「郡県制への移行」、「世襲制の廃止」、「税制改革」、「女子教育」など多岐にわたるものだった。覚馬を捕虜として捕まえた薩摩藩も人物の優秀さを知っており、粗末に扱わなかったという。
 そしてその後アメリカ宣教師の「天道溯源」を読み、共鳴し、キリスト教こそ心を磨き進歩を促進する力と信じて新島襄に維新後購入した土地を学校用地として譲渡し、同志社建設の新島の右腕になってゆくのである。明治25年64歳で没するが 京都において科学技術の振興、日本初の女学校「女紅場」を開設するのである。明治18年キリスト教の洗礼を受ける。同年 京都商工会議所会長(会頭)となる。ちなみに新島の父は70歳で洗礼を受けた。京都というもっとも保守的で日本的な地におけるキリスト系学校の建設、また当時仏教徒からキリスト教徒になる日本人としての生き方。並大抵のことではあるまい。現にまだ、キリスト教の信者への弾圧が残っていた時代である。その覚悟の大きさを感じるのである。山本覚馬は次女を横井小南の息子 横井時雄に嫁がせ、新島襄を支えてゆくことになる。

 会津魂を感じさせる明治以降の会津人のその後は 戊辰戦争の籠城戦で軍事総督にあたった山川大蔵は当時23歳、その後西南戦争で功績をあげ、晩年貴族院議員となった。弟健次郎はアメリカに行き、帰国後 東京、京都、九州帝国大学総長となった。薩摩長州との降伏の交渉役の秋月悌次郎は熊本第五高等学校教授として若者の教育に当たったという。まさに明治人の気骨そのものといえる。12,3才の柴五郎少年はその後下北,斗南藩に流され飢餓生活を乗り越え、陸軍大将、台湾軍司令官となる。ただ、戊辰戦争前後河井継之助との連携を取ったり、奥羽越列藩同盟の結成の中核であった政務担当家老梶原平馬はこの当時25歳だったといわれているが斗南藩の開拓失敗後の晩年の姿はわからない。藩を守ろうとした会津武士はいずれも20代半ばの有為の人間だった。

 さて会津が長かったがここでもう一人会津に近い二本松から出た明治人を取り上げたい。
二本松藩士の次男で戊辰戦争時 白虎隊の若松少年隊と同じく、安達太良山で戦った二本松少年隊の生き残りを父に持つ朝河貫一博士。阿武隈山麓の寒村に明治6年1873年)に生まれた。父 朝河正澄は貫一の生まれた翌年、教員資格を獲得し校長格として小学校に勤める。「我が道一を以て之を貫く」。父は5歳そこそこの息子に「古近史談」「日本外史」「四書五経」など教え始めたとされる。「この父にしてこの子供あり」。この父正澄は貫一が明治28年(1895年)アメリカに渡り10年ぶりの明治39年(1906年)2月の帰国時二本松から横浜までやって来て再会したその年の秋 没した。厳しく教育した息子貫一は7,8歳の時、12,13歳の学力があり その地域伊達郡内の学力比較試験で常に最優秀の成績だったという。神童とか、朝河天神といわれた。
 苦学しながら東京専門学校(のちの早稲田大学)に学ぶ。
前回取り上げた新島襄、13歳で青森県庁の給仕になった柴五郎少年、同じく後藤新平 必ずこの時代人生の縁のある人にめぐり逢っている。
新島はアメリカ人で ピューリタンの実業家ハーデイ。ミドルネームを使わせられるくらい信頼された。アメリカ名 ジョセフ・ハーデイ・ニイジマである。柴五郎少年は熊本細川藩士の石光真民末弟で横井小楠門下の野田裕通。後藤新平は同じ横井小楠門下であり、江戸城引渡し役を行った安場保和。朝河貫一の場合、本郷教会で牧師であった横井時雄に会うのである。「横井時雄」は、横井小楠の息子にして山本覚馬の娘婿で当時を代表する思想家である。牧師横井時雄とアメリカ、ダートマス大学タッカー学長の縁が貫一のアメリカの授業料、寄宿費用の免除となり、この縁がその後の貫一の信仰生活、資金のないアメリカ留学に大きく道を開き日本人で初めてイエール大学(当初はダートマス大)入学となる。その後大学院歴史学科に進み 2度の短い帰朝を除き約半世紀アメリカ史学界で生き抜くことになる。3年毎の実績が上がらない場合 契約打ち切りのアメリカの大学教授の厳しさ。想像に難くない。昭和12年(1937年)エール大学歴史学教授となる。昭和23年(1948年)アメリカ、バーモント州で没する。74歳。

 今 日本は韓国とは「竹島問題」中国とは「尖閣諸島」ロシアとは「北方四島」の外交上の問題がある。
日清戦争時は朝河が東京専門学校学生のとき、日露戦争は朝河がイエール大学大学院を出た直後に起きた。
100年前の1909年「日本の禍機」という本を著し「日本は天下に孤立し、世界を敵とするに至るべし」と予言したが36年後予言通りになった。
 当時の日本は日露戦争に勝利した後、韓国併合満州国建設、日中戦争拡大、太平洋戦争に入り敗北した。
100年前の本である。本書「最後の日本人」に収録されているその部分を読むと、その当時の貫一博士の見識は今読んでも新鮮である。何せヒットラーの自殺を予言した詳しい精神分析の内容も載せてある。

 もう1つ。日本の1140年から1640年という5世紀に渡る期間の封建時代の文書「鹿児島県薩摩郡の入来村文書」を研究し、「豪族入来院氏と鎌倉、室町の中央政府との交渉過程の文書調査」、「周辺豪族との交渉文書」、など入来村という狭い地域の古い文書の長い変遷を通じて 日本の封建社会の構造を学問として体系立てた「西洋の封建制度との比較研究」が「朝河史学」となりエドウインライシャワー元駐日日本大使の研究が「朝河史学」の系譜を引いたということである。朝河貫一が入来訪問は1919年、ライシャワー氏が訪問したのは1962年という。一般的関心からは程遠い話題ではあるが、かような日本人が二本松から出て明治期、世界で活躍したのである。二本松少年隊の父のDNAを受け継いで。(了)