講談社「めぐり逢いー新島八重回想記」鳥越碧著2012・11刊

 「日本人の精神力」が一番強く、逆境にありながらも 向かい風にもめげず粘り強く戦う力を持ち合わせた風土があるとしたら、どこだろうと考えたとき、それは「会津周辺・はからずも戊辰戦争で敗戦に追いやられた地方」ではなかろうかと、少々一方的だが考えている。但し現在の風土が過去のDNAを引き継いでいると想定しての場合である。戊辰戦争で敗戦したにもかかわらず明治の後半それ以降各界に優れた人材が出た。
 幕末会津藩が大局的立場から時代の波を見ようとせず、(徳川の縁戚としてやむを得ずが妥当な表現か)、京都守護職という幕命に従い京を守ることから、非運の一途をたどることになったのだが、その後家臣のDNAを引く子孫はそれに負けなかったのである。
 本書は読むと新島八重の伝記でなく、その夫同志社大学創立者新島襄の伝記である。さらに新島襄会津でなく安中藩の出身となれば八重の兄
で、幕末から明治にかけ、新島襄の最大の理解者、支援者となった会津藩時代は砲術師範 時代が変わると、大学経営者になった山本覚馬という会津人武士の生き方が興味深い。
 この時代の10代後半の青少年(?)は砲術、航海術などの先端技術を身に着けようと、自らのあらん限りの智慧で目的に向かって走っている。
今でいうと再生医療なり,あるいは宇宙技術か。新島襄(七五三太)も密航してアメリカに渡るのであるが、一つ間違えば,長州の吉田松陰のように死罪ものだった。
 安中藩という支藩の限界を自覚し、本藩にあたる備中松山藩に航海術を学ぶためと称した工作が成功し函館に行く。さらに自身が海に落ちた工作をし上海行きの船に乗り、そしてアメリカ行きの商船に潜り込み渡る。あらん限りの智慧と、手づるを使い努力する様はいつの時代も同じで、挑戦せずむしろ決められたレールを歩んでいる人間を評価してきた結果が今日の停滞社会の一因かと考える。

 前回のブログで少し取り上げた「ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書」に語られる戊辰戦争で敗れた一家の現状はその「逆境・向い風」の状況がわかる。本書「めぐり逢い」よりこの「柴五郎の遺書」のほうが凄まじい。まだ11〜12歳の少年.会津落城し下北半島流浪の苦しみの果て斗南藩に追いやられ、蓆(ムシロ)だけの家で飢餓生活を強いられる。「柴五郎の遺書」から抜粋する。『真に顧みて乞食の一家なり。会津に対する変わらざる聖慮の賜物なりと泣いて悦びしはこのことなりしか。何たることぞ、この様は。お家復興に非ず、恩典も非ず、真に流罪にほかならず。擧藩流罪という、史上かってなき極刑に非ざるか。余 少年とはいえ、これほどの仕打ちに逢いて正邪の分別つかぬはなし。』
このような環境から兄弟の力により、脱出してゆく。極貧に置かれた五人の兄弟が其々すぐれて、其々の道を行く姿も兄弟愛、親の厳しさもあればこそと思える描写もある。今の社会からは遠いが大切なことである。極貧から脱出の過程で熊本細川藩の石光真民の末弟で横井小楠の門下となった野田裕通の知遇を得て弘前県(その後青森県)の一給仕になった13歳から人生の階段を87歳で没するまで登ってゆく。
 横井小楠といえば、岩手県水沢藩の後藤新平もまた横井小楠を師とし,小楠四天王の一人といわれた安場保和により学僕として給仕に採用され能力を開花させてゆくことは、このブログ2009・5・7「後藤新平・日本の羅針盤となった男」に書いた。同じ過程である。安場も、野田も30才前後の日本の男である。戊辰戦争で負けた側の少年の能力を見抜き育てるという現代日本で最も欠如した「もの」を持っていたのだろう。そういう点で了見が広かった。何しろ現代は若者使い捨ての時代である。

 本書「めぐり逢い」の中で、熊本藩薩長土肥に後れを取ったということで、細川護久藩知事明治4年に創った「熊本洋学校」から集団で新島の創った同志社に入学し、その後新島の同志社でのキリスト教育に参画してゆくことが描かれているが、その中に横井小楠の息子が新島の娘と結婚し、学校の基盤創りに参画してゆく縁(えにし)が描かれている。

 この柴五郎の生き方と新島襄の生き方は相通じるものがある。もっとも片や軍人の世界と 片やキリスト教育にかける違いはあるが、志を立てて一途を歩む日本人の姿は筆者には違いがなく映る。
明治時代は新教・プロテスタントの時代という人もいる。明治の気質とプロテスタントの精神がよく適ったという。勤勉,自律あるいは自助、それに倹約がプロテスタントの特徴なら、明治もそうだったと。

会津人八重の兄の山本覚馬禁門の変、鳥羽伏見の戦争で失明したものの、その後古い価値観の強かった京都で住民の反対を受けながらも新島襄の片腕となりキリスト教大学を創立するのである。しかもその後京都商工会議所会頭になったという。