平成24年8月残暑雑感。

 今年 都内の百貨店で開催されていた「五浦(いずら)と岡倉天心の遺産展」を観賞する機会があった。東日本大震災で流失した五浦六角堂が茨城大学などの努力で今年4月再建された記念の絵画展であった。 
横山大観、下村観山、菱田春草、など日本近代絵画史上に残る絵だ。
柔らかく、繊細で、暖かくもあり、厳しく、深く、「弧にして凛」としいつまでも見飽きない、「本物」と実感した。

この中に気になる「朦朧体」といわれる絵が特別のコーナーに一枚あった。疑問を感じていた。

 明治22年(1889年)東京藝術大学の前身、東京美術学校設立時に「校長事務取扱」、翌年27歳で校長になった岡倉天心。その後校長排斥問題で明治31年(1098年)辞職。「官に対抗する民による新しい美術集団」として「日本美術院」を35歳で創設した。不当な懲戒処分を受けた天心に従い、ついていった17名の中に上記の芸術家がいた。
「平家の都落ち」と評されながらも天心の隠棲の地となった五浦六角堂。明治の初め九鬼隆一、フェノロサの協力で行った法隆寺夢殿の調査の感動が六角堂という形となったという。

 天心の「空気を描く工夫はないかね」それを描いたのが「朦朧体」の絵といわれる。朝靄の中の甘美な夢の中の光景を思わせる幻想的絵画であった。当初は受け入れられなかったという。
 この朦朧体の絵を先んじて取組んだ画家が先の17人の中にいた「西郷弧月」という。しかしどういうわけか大観,観山作とされているという。「弧月」が 美術学校時代の恩師で日本美術院の実力者橋本雅邦の娘と結婚 離婚し、日本美術院という団体から離れた後の人生について、立派な業績を上げ、中心の中の中心と言われながらその後の人生ははっきりしないと言う。集団から離れたことで消されたのか。


「集団、団体からはなれて落伍していくか、伸びていくか?」
「大組織を離れ落伍していくか、成功していくか?」

 3年前に国民から大きく期待された「民主党政権」。崩壊の兆しである。1人、2人と自らの政党に三行半を付け、離党していく議員の姿。
覚悟し離党して行く本人の無念さ、これから一人の政治家として身一つで戦うしかないだろう。人に省みられることなく己と向き合い、自らの理想に向かって一本の杭を垂直に打ち込まねばならないだろう。

 日本社会には集団に基盤を持った者が脚光を受け、離脱したものは、落伍者、変人奇人と扱われる偏狭な人間観がある。もっとも大企業を辞めたベンチャー経営者の成功で次第に変りつつあるが、今の激変の時代昨日まで先頭を走っていた政党が次の選挙で大きく逆転のされる時代である。「真贋」の試される時代である。この夏、離脱する若い民主党議員を見て、100年後の後世の日本人より「本物」の政治家であったと言われるよう「芯」を持ち続け、つぶれていかない様 人生への熱い挑戦を望んでいる。(了)