PHP研究所 「九鬼と天心」 北 康利著

 著者は銀行・証券の金融出身の作家である。3年前「白洲次郎・占領を背負った男」を書き高い評価を受けた。吉田内閣の時代 憲法制定、講和締結の際にGHQの高官とやりあい、相手から「従順ならざる唯一の日本人」といわれたことや「相手が誰であれ理不尽を許さず」の原則を貫いたことなど、読後感は圧倒されたにも拘わらず以外や胸のすく思いの「ここちよいもの」を味わったことがある。
 この北康利という作家は兵庫県三田市(「さんだ」とよみ、慶応義塾の「みた」と少なからぬ縁のあることは読むと感じる。)の郷土史家であり「三田(さんだ)」に係わった人物を取上げ掘下げている。先の白洲次郎の祖父は白洲退蔵といい幕末三田藩で家老職に抜擢された名家である。

「九鬼と天心」の主人公は「九鬼隆一」という1850年嘉永3年)に生まれ1931年(昭和6年)死去、丁度明治維新の前に生まれ 昭和恐慌の最中、日本が軍国の時代に入る前に逝去、将に明治時代をフルに人生を生き抜いた人物の一人である。「九鬼隆一」と言う名前も「九鬼周造」は知りえていたものの 随分おどろおどろしい名前と言う風にしか本書を読むまでは考えていなかった。幼名星崎貞四郎 養子 結婚して九鬼此面(このも)明治に入り九鬼静人 慶応塾生として九鬼隆一 人生で4度名を改めた。

「九鬼隆一」は文部省の創業時の基礎を固めたとある。
長い間 日本の教育制度はどのような人物が関与して出来たのだろうか、と言う疑問を持っていた。以前 東北宮城の登米町に「登米高等尋常小学校」と言う国指定の重要文化財を訪れたことがある。以前TV番組「ニューステーション」でその校舎でのピアノ演奏が全国に放送されたが バルコニーのある西洋風木造二階建校舎の教室に「自力更生」(厚生ではない)の大きな額が架かっており、更に世界諸民族の「顔相」の比較図 並びに諸民族の言語の関連と流れが図解され掲示されてあり 現代と比較し随分水準の高い教育をしたものと 暫し感慨に耽ったことを思い出す。
明治5年 「学制」公布。「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」。今思うと明治政府の熱い思いがそこにある。

「九鬼」は30歳近くの年齢で「九鬼の文部省か、文部省の九鬼か」と言われる程文部省を切り盛りしたとある。そのようにいわれるようになったのはそれまでの多くの業績が物語る。少し前 明治8年それまで薩長出身のみの留学生派遣制度を改革 新制度に改め その派遣生第1号に鳩山和夫 小村寿太郎が選ばれたという。その後はこの2人はそれなりの業績をあげた。人を見る目が鋭かったのだろう。

 明治12年それまでの213章の「学制」を47条の「教育令」に変えたあたりから自由主義的教育の考えを持つ者と儒教思想に重きをおき中央よりの教育を指導する者との間に路線の戦いが始まる。結果文部省の「九鬼」は自由主義教育を目指す福沢諭吉など私学に対する「弾圧責任者」となり 以後福沢が明治34年2月なくなるまで「九鬼」を許さなかったという。

 現在「教育の荒廃」が云々されている。又将来のテーマとして「道州制」が取りざたされている。又欧米の大學に比較し研究成果の低い東京大学の「民営化」が取り上げられている。この明治時代の論争を掘り下げるのも興味深い。

しかし「九鬼」を改めて再認識したのは明治30年の「古社寺保存法」の制定である。これは戦後の文化財保護法に受け継がれていく。

明治元年神仏分離令」が出る。王政復古の意味するものは神道の祭主は天皇と言うことで神道復権を想起したものだった。したがって「神仏分離令」は「廃仏令」に近いニュアンスで仏像が相当破壊されたと言う。

 東洋大学創設者の井上円了明治22年郷里新潟の父よりの帰郷の要望に対し「仏教が危機存亡の重大時局に着き帰郷不能」という手紙を出している。(井上円了の教育理念・新しい建学の精神を求めて・東洋大学・昭和63年)
少し脱線するが この時代現在著名な大學が創立されている。仏教哲学の教育機関としての哲学書院が 明治30年東洋大学として設立された。
 又「九鬼」と同時代で8歳若いが1858年(安政5年)元長州藩吉敷支藩の下級武士に生まれた「成瀬仁蔵」が現在の日本女子大を創立している。
「徳不孤 必有隣(徳は弧ならず必ず隣あり)」日本女子大記念講堂に「信念徹底・自発創生・共同責任」と三綱領が掲げてあった記憶がある。

 処で わが国では長きにわたり 神道と仏像が共存していた。鳥居があっても本殿に仏像があったりして2つの宗教の融合が進んでおり 対立より融和を選んだ民族である。私見であるが筆者は単一宗教を信じる欧米と違い日本はよく言えばすべてを「飲み込む」多神教の民族と考えている。大きな石 太い木に神が宿る。やや非科学的であるが日本人にはこのような思想がないともいえない。東洋の思想は無為自然の精神にある、と思う。

 この明治はじめからの「廃仏毀釈運動」に疑問を持っていた「九鬼」は明治30年「古社寺保存法」を制定しその後 当時行政の係わっていない「美術行政」に係わっていく。この参謀が13歳若い岡倉天心である。

 これ以降は副題の「ドンジュアン」スペイン語で「ドンファン」の世界を織り込みながら展開する。明治建国に熱い情熱を燃やした男たちは20代 30
代である。その「恋」にも情熱家だった。岡倉天心にはインドベンガルの女性詩人とも秘められた物語があると言う。(大原富枝著「ベンガルの憂愁」岡倉天心とインド女流詩人)。

 今年11月江戸東京博物館特別展で「ボストン美術館浮世絵名品展」を見る機会があった。「幕末のビッグネームコーナー」にあった 歌川国政 広重 北斎 英泉 歌川国芳などの作品を日本から帰国し就任したボストン美術館東洋部長として収集したアーネスト・フェノロサのすさまじさを感じたところである。

招聘したフェノロサを天心の師とさせ参謀とし 東京美術学校の設立 運営 そして日本や東洋の文化についてのその後の天心等の評価の影には「九鬼」の当時の政治力があったればこそである。

「九鬼隆一」という明治建国の時代に日本の教育制度に関与した人物を本書で知り合えたのは永年の疑問の糸口をつかんだ様でもある。

「九鬼隆一」の家族の墓は駒込近くの染井墓地にある。天心も同じ墓地である。「九鬼」男爵は郷里兵庫県三田市菩提寺がある。家族とはなれて郷里三田に奥津城を求めたところに明治人の男の生き様を感じる。