草思社「後藤新平・日本の羅針盤となった男」山岡淳一郎著(2007・3・2刊)を読む

 高村光太郎が 目標に向かって黙々と努力し粘り強く達する岩手県人の気質について「岩手の人 沈深牛の如し 地を往きて走らず 企てて草卒ならず ついにその成すべきをなす。」と述べている。道州制になると「東北州」等でくくられその土地柄は希薄していくと危惧しているが「岩手」の土地柄は近代に入り 南部藩士三本木開拓の父「新渡戸傳」の孫として生まれた「新渡戸稲造」など各分野でそれなりの足跡を残した人物は多い。本書の伝記の主「後藤新平」もまた岩手の人である。
 仙台藩支藩の小藩岩手水沢藩の武士階級に生まれた新平が戊辰戦争で武士階級から水呑百姓に落とされるが 占領軍である明治新政府の行政官に才能 気質を見出され 新しい学問の西洋医学を修め 医師 衛生官僚となり長州 薩摩といった後ろ盾なく裸一貫でのし上がってゆく。筆者は 歴史上足跡を残した人物を考える場合 本人が先祖より受け継いだDNAなり子孫に関心がある。後藤新平の父方に幕末の蘭学者 高野長英が大伯父としてつながっており 新平の生まれる7年前なくなっているが 影響なくもないと考える。勿論子孫には社会学鶴見和子、哲学者鶴見俊輔がいる。新平は1857年(安政4年)生まれであるから 西の方では 「九鬼と天心」で触れた1850年生まれの九鬼隆一 日本女子大創立者の1858年生まれの成瀬仁蔵が志高く明治の日本の基盤造りに活躍していたことになる。

 15歳で福島須賀川医学校に入り化学 理学 解剖学を習得 西南戦争時の傷病者対策で才能を発揮 1882年25歳で愛知県病院長兼医学校長 その後ドイツ留学を経 1892年当時の三菱高島炭鉱の労働者の惨状を見て 女性,児童の使役を制限する法律が不可欠と考え「職業衛生法」に取り組んでいくが更に今日の「社会保険 公的医療制度」のルーツとなる思想「疾病の保険法」を発表する。「人間社会は富や知識 生活力を平等に分配するのは難しい 不平等をそのままにすれば貧困がはびこり 労働力不足で生産力が落ち思想的社会不安が高まる」(本文)とし社会保障の考えを発表したことである。(実現は30年後)一時内務省衛生局長(現在の厚労省事務次官か?)の時 半年監獄生活送るが 1893年37歳 日清戦争時の伝染病対策の陸軍検疫部事務官長として児玉源太郎と「文武統治コンビ」を組み大検疫事業を完遂させる。この「大検疫事業」で新平は長州閥本流の人脈と陸軍の習性を踏まえて1898年42歳台湾総督府民政局長(後の民政長官)1906年50歳満鉄を創業 満鉄初代総裁兼関東都督府(後関東軍)最高顧問となる。

 この時期アメリカでは米西戦争(1898年)イギリスはブーア戦争(1899〜1902年)世界は植民地争奪の時代である。台湾民政局長の1898年から桂内閣初入閣の10年は近代日本が台湾統治 日露戦争 満鉄創業と激しく動いた時代でありその中で後藤がいかに国家建設の戦略にかかわって行ったか興味大である。

 ここで台湾の統治戦略について当時は イギリスのインド統治に見られる現地の実情に合わせた特別統治と フランスのオスマン帝国から奪ったアルジェリアにみる植民地同化統治の方法があり 近代日本の為政者が当初イギリス流を取ったことは「イギリス統治程度のことは日本でもできる。」と当時の国際植民地奪還競争の日本の背伸びし 高揚した意識が伺える。また台湾銀行の創立では公債の発行による資金調達で経済開発を進めようとした後藤の行政官としての高い見識を伺える。

 当時の満鉄総裁の地位については 鉄道を核とする都市開発および産業振興で植民地を統治する国策複合体のトップであり 満州地域の徴税権を含む行政全般のトップとしての新平が采配をふったと理解するとわかりやすい。

 この後政治にまつわりつく打算と嫉妬の世界に入り 1908年52歳で桂内閣逓信大臣で初入閣 寺内内閣で内務 外務大臣 1923年山本内閣で内務大臣、を歴任したが 場合によっては平民宰相といわれた原敬より先に岩手出身の総理大臣が生まれたかも知れないのが 読後の感想である。
 読後強く現代と比べ感じる点が1つある。明治維新 占領軍の官僚が賊軍かどうかを問わず才能ある若い人材を徹底的に育成し近代国家の人材を造っていったことである。本書の安場保和のように後藤少年を見つけた際「もって生まれた本質を壊さず,矯正せず」才能を伸ばしていったことである。現代の如く 経済界のトップの会社が若い社員を契約、派遣と消耗品の如く扱いのとは トップとして相当の落差を感じる。もっともその前に明治の新時代への教育に対するきつい周囲の情熱があったのかもしれない。「東北の支藩という二重の辺境性と高い教育熱が揚力の源か」と著者が述べている。時代は異なるが考えさせられる。

 大恐慌の1929年4月岡山に講演会に行く列車の中で倒れる72年の人生はメルトダウン化しつつある現代の日本人に奥深いものをその人物研究に感ずる。 後藤の思想については4年前の2005年日露戦争終結100年 太平洋戦争終戦60年を節目にある出版社が後藤新平生誕150年を記念して「今の時代こそ後藤新平のような人物が必要」とし 新平研究者が「後藤新平の会」を創設した。

 著者は思想の中心は新平を見抜いた熊本藩江戸城引渡役を行った占領軍の行政官「安場保和」さらにはその師匠「横井小楠」の「公共と公益の思想」が後藤に受け継がれ、医療衛生行政 台湾統治 満鉄創業 東京市制 大震災後の復興事業に 繋がったと考えるが 筆者も同感であり 「公共・公益の思想」は現在の官僚や世襲政治家に欠けているものであり改めて考えてみたい、と思っている。

 今年4月NHKが「戦争と平和の150年」という番組を組み「ジャパンデビュー」で台湾統治、天皇と帝国憲法を取り上げている。まだ番組は続く。150年のスパンで後藤新平を考えるとその本質が多彩に光輝くだろう。
このブログを書きながら先に書いたアンドリュー・ゴードンの著書「日本の200年・徳川より現代まで」を考える。
 後藤新平については本書読了を機に改めて研究していこう。