英治出版「グラミンフォンという奇跡」ニコラス・p・サリバン著 東方雅美・渡部典子訳(2007・7・20刊)

おめでとうございます。

 新年なのでいい話題を取上げたい。

 「タイガーマスク現象」が全国で生じている。小学校に入学する児童に匿名で「ランドセル」を贈るというこの「善意」を否定する人はいない。なかには 社会を斜めから見て「偽善」と言い 批判する「輩」も昨今の社会いると思うが、斯様なことはめったに出来ることではない。未だ現役の方にしろ、現役引退の方にしろ、将来への経済的な不安や高齢化の進展のなか、孤児施設へ匿名で行うこの姿は 皆が、自分だけのことだけでなく、周りのことも、真剣に考えている日本は、いい国だと海外で仕事に取り組んでいる方から、メールを頂戴した。

 一昨年末(2009・12月)このブログで希望をこめて「時代と価値体系が確実に変わりつつある。」と書いた。昨年8月、以前金融業界に身を置いた者として感動した「TV番組」を視た。

 「栃迫篤昌(とちさこあつまさ)氏」(とちは木ヘンに方)
  マイクロファイナンス・インターナショナル・コーポレション(MIFC)社長。

 番組では約30年前大手都銀入行、メキシコの地方都市をはじめペルー、エクアドルに勤務、初めて貧困の現実に出会う。当時銀行が相手をするのは、富裕層や国の政府機関。彼は自問したそうだ。「どうして貧しい人を助ける金融は無いのか?」

 2003年50歳で中途退職しアメリカに渡り中南米の移民労働者のために、安いコストの「送金システム」を開発、起業し、ビジネスとして成功させている。その日暮らしの移民労働者に家や車を買える道を拓いた。送金手数料は同業の10分の1だそうだ。常識といわれる「カネのあるところに資金が流れる。」とは180度異なる。
 中南米の底辺といわれる人々にカネという血液を流し循環させる。しかも驚いたことに融資する条件が、母国の家族への送金履歴だという。まじめに定期的に送金する事実は如実にその人物像を語るものとして評価している。送金された母国の家族は、その資金で牛を買い牛乳を搾り、子牛を売り生計をたて、家、車を買う。ザット以上のような内容であった。

 この時代、金融の世界で見られたのは、2008年秋の「リーマン・ショック」を引き起こしたアメリカのサブプライムローン投資銀行に見られる弱肉強食の仕事である。栃迫氏本人の生き方が結果として自然そのような形になったと思うのだが「BOP(ボトム・オブ・ザ・ピラミッド)ビジネス」に人生を賭ける。同じ金融出身としてこのような道を現役後歩む日本人もいるのかと,胸が熱くなった。気のせいか先月取上げた「佐々井秀嶺僧」に表情が似ている。

 標題の「著書」はまさに栃迫氏の「バングラデッシュ版」と言ったら無礼とお叱りを受けるかも知れないが、移民としてアメリカに渡り、欧米の金融業界で築いた前途有望なキャリアを捨て携帯電話事業を通じて祖国の貧困の問題に挑戦した記録である。

 「グラミンフォン」を創業した男。「イクバル・カデイーア」。かってインドのベンガル州の一部だった東パキスタンで生まれた。西パキスタンで使われるウルドウ語の「東パキスタン」への公用語「化」への反発がバングラデッシュの独立戦争となる。高校に入る前での寄宿学校の修了試験では10万人中上位10位であったという。頭脳明晰だったのだろう。100万人とも300万人ともといわれる虐殺のバングラデッシュを逃れ1976年 17歳で移民となり、アメリカに渡る。アメリカの大学を受験する際の共通テスト「SAT」で高い成績を上げ、ウオルドーフカレッジからミネソタ州のガスタバス・アドルファス大学で学び、1983年フィラデルフィアのスワスモアカレッジでエンジニアの学位をとる。その後2年の世界銀行勤務。1985年ペンシルベニア大学ウォートンスクールの博士課程で「デシジョンサイエンス」を学び、ベンチャーキャピタリストの仕事に就いた。そしてその後アメリカにおける地位を捨て1994年36歳の時 祖国の貧困の問題解決のためバングラデッシュに戻る。

 一方、2006年ノーベル平和賞を受賞した「ムハマド・ユヌス」は1974年アメリカの大学の経済学の学者の道を捨て バングラデッシュに戻り数年の貧困地域での活動後、1983年マイクロファイナンスを中心とした「グラミン銀行」を設立した。

 カデイーアが1993年バングラデッシュで祖国を携帯電話による貧困脱出の仕事を取り組み始めた頃、ユヌスの「グラミン銀行」は10年の実績を先輩として積んでいた。カデイーアは創業の事業資金調達のため 北欧 アメリカ 日本等の投資家を回り歩く。
 本書は「グラミン銀行」のユヌス総裁との「縁」を結びながら 農村の女性たちが起業を通じて経済的に自立できるように社会のシステムを構築する「グラミンフォン」の創業の苦闘記録である。

 その後カデイーアは科学・教育・経済開発の分野で優れた業績を上げたバングラ市民をたたえるバングラ最大の権威ある賞「SEEDアワード」を12番目で受賞した。初代受賞者は「ムハマド・ユヌス」である。

 ムハマド・ユヌス氏がノーベル平和賞受賞してから5年経った。

 貧困や環境の悪化といった社会問題を改善しつつ利益を生み出す「ソーシャルビジネス」(社会的事業)は次第に拡大しつつある。年末の記事に「JICA]がアジア・アフリカの低所得層向けビジネスの事業化支援を本格化するとの報道が出た。昨年「グラミン銀行」は九州大学と「ソーシャルビジネス」を支援する財団の設立を行ったり 事業会社では「ユニクロ」「雪国まいたけ」との提携も進展、「フランス・ダノン社」「ドイツ・アデイダス」など欧米の大企業との提携はもはや既に古い話題である。「万一、ダノンやユニクロが社会的事業から撤退しても貧困層の自立を促す商品が生活に入り込んでいれば、その商品を作りたいという第2 第3の企業が必ず出てくる。」というユヌスの記事を読んだ。彼の哲学『施しモノは独立心を奪い去り、貧困を継続させる。』明らかに時代と価値体系が確実に変わりつつある。

 年末から年始にかけ 30年前に読んだ司馬遼太郎坂の上の雲」を再読した。100年前の日本人の生き方。栃迫氏のような日本人の生き方。佐々井僧のごとき日本人の生き方。浮き草にならないようグローバル経済の中で日本人としての軸を持ち、外から日本人を見つめるグローバルな生き方をする努力。同時に2国籍を持ちグローバル社会に生きるこれからの若い人達。発想が萎縮しては生き方自体も萎縮する。年代問わず。(了)